港区地域の公立小学校の教師は、鞆絵(ともえ)学校では、昌平学校出身の訓導(くんどう)と文部省から命ぜられた授業生であり、御田(みた)学校は、鹿児島県一等副教官の訓導と、開蒙社(かいもうしゃ)(区学校)の教授をしていた3名の授業生で組織されていることが、開学願の教員履歴より知ることができる。
このことは、鞆絵学校では仮小学の学習法の影響が残り、御田学校では、東京師範学校の授業法が、発足当初から実施されたと考えられる。港区地域の他の公立小学校も、このような形で出発したものであろう。また、私立小学校も、教員講習所において、東京師範学校出身者からの講習が必修であったことから、師範学校での教則によったことは明らかである。また、明治10年東京府師範学校仮分校3校のうちの1校が、鞆絵学校に設けられたことにより、師範学校の学習法が港区地域の公・私立小学校に影響を与えたことと思われる[注釈3]。
文部省の「小学教則」も、師範学校の「小学教則」も、ともに上・下等各8級に分け下等小学は6歳より9歳まで、上等小学は10歳より13歳までに卒業するという、学制に定められているものと同じである。
この級は、今の学年のように進むのではなく、厳しい試験があり、該当級の内容を理解し合格しなければ、進級することはできなかった。
この試験は、明治8年の「東京府年報」(『文部省第三年報』所収)によれば、次のように示されている。
小学試験規則
第一条 試験ニ三様アリ一ヲ月末小試験トシ一ヲ定期大試験トシ一ヲ卒業大試験トス
第二条 毎月ノ末小試験ヲ行ヒ生徒学業ノ進否ヲ判シ坐次并記名札ヲ上下スヘシ但小試験ハ其校教師ノミニテ行フ者トス
第三条 定期大試験ハ毎年両度ト定ム(四五ノ二ヶ月ヲ前期トシ十・十一ノ二ヶ月ヲ後期トス)但予メ各校試験ノ序次ヲ定ムベシ (以下略)
この試験は公開で、評価問題に正確に答えて卒業を認められ、進級することができる。各級の学習期間の目やすは6カ月であったが、学力がつかなければ、長期間在級していても卒業試験で落ちるので進級できなかった[注釈4]。
明治11年9月から、今までの三つの試験が小試験、定期試験、大試験、臨時試験、集合試験の五つに改正になり、定期・臨時の大試験と集合試験には、府の学務官・試験掛と学区取締が来校し立会うことになった。問題は、試験掛かあるいは学務官が選び、及第と落第とは、其の級の標準点に達した者と達しない者とに分けて、判定するようになり、前より一層きびしくなった(第2節第2項(2)144ページの「試験法の改定」参照)。
関連資料:【文書】小学校教育 鞆絵小学校試験論文