近代学校教育の歴史からみれば、「学制」時代の約7年間は創成期であり、次の約7年間の「教育令」時代は模索期であるとよく言われるが、一面再三変わった「教育令」の時代は、次の学校教育確立期といわれる「小学校令」時代への陣痛期であったとも言える。教育の自由化といわれるいくつかの要点をあげてみよう。
一 学校の設置義務が私立学校や巡回授業でよいように、ゆるめられた。
二 学区取締を廃して町村民の選挙による学務委員を設けた。
三 学齢の年限に四年以上という土地の実情に合わせる幅を設けた。
四 就学条件を緩和した。たとえば別に普通教育を受けられるものは、学校に入らないでも就学とみなされた。
五 教則の編成を各学校に任せた。
このような自由を認めた「教育令」の施行について、明治13年(1880)文部卿に提出した府知事文書は、教則編成を各校に委任したことを取り上げて、府としては都合が悪いと訴えている。東京の住民は移動が多いため、教則が各校まちまちであったら、転校のたびに進度のちがいから編入学級がまちまちとなり、学習の上にも混乱を起こし、更に、教科書を転校の度びに購入する不都合を指摘し、これを放置すれば、教育の衰頽(すいたい)は目に見えて明らかであるとしている。更にその中で「一二ノ書籍ヲ新調スルニ当リ種々ノ苦情ヲ唱へ動モスレハ普通学科ヲ忌避(キヒ)シ従来ノ慣習ヨリ書法専修ヲ追慕致候様ノ事情ニ」と述べているのは、「学制」や「教育令」の時代の市民の、学校教育に対する反発的態度を伝えている。すなわち、江戸時代以来の寺子屋教育こそ、市民にとっては実利的な教育であり、金と長い年限のかかる小学校に抵抗を感じる一部の市民感情が、かなり根強くあったことを示している。
明治13年に自由化傾向の強かった「教育令」は、統制的なものに改正されたが、この「教育令」改正に対する東京府の答申を見ると、
教育令改正ノ発行アリシハ実ニ明治十三年十二月ナリト雖(イエ)トモ本府施政ノ緩急ニ因テ其改正ノ旨趣ヲ実際ニ施行シタルハ漸ク本年(明治十五年)五月ノ事ナリ。(中略)
抑モ我東京府下ハ四方輻輳ノ地タルヲ以テ各様ノ人士常ニ相往来シ之ヲ上流ニシテハ学士論者ノ渕叢(エンソウ)ニシテ之ヲ下流ニシテハ傭人雇人ノ巣窟(ソウクツ)タリ、其貧富知愚ノ懸隔(ケンカク)スル真ニ他府県ノ比ニアラサルナリ故ヲ以テ号令ノ発スル毎ニ上流ニ在テハ交々其是非ヲ論シテ止マサルモ下流ニ在テハ更ニ痛痒(ツウヨウ)ヲ覚ヘサルカ如キ比々皆是ナリ、今回ノ学事改正ニ於ケルモ亦上流士人ノ議論聒(カマビスシ)ク法令ノ干渉ナルヲ厭(イト)フノ語気ハ漸ク見聞スル所ナレトモ下流ニ在テハ更ニ其痛痒ヲ感セサルカ如シ然レトモ前顕実施日尚未タ浅キヲ以テ真正ノ状況ヲ確知スルニ由ナシ(以下略)
と、改正された「教育令」の本府実施のずれや、この学事改正の市民の反応について論及している。
この東京府の二つの文書でまず気のつくことは、前者では、教育の自由化について現場の混乱を訴え、後者では教育の統制化について、法令の干渉を厭(いと)う声や無関心さを述べていることである。趣旨を異にする二つの法令の基本的な性格に対して、それぞれ批判的な答申をしているのをみても、学校教育の創成期・模索期の生みの悩みが、この二つの文書に象徴されていて、自由化の困惑と統制の困難さがうかがえよう。