「小学教則」の実施

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 明治7年(1874)に学校を巡視した三つの公文書がある。
 
   知事参事奏任出仕学務取扱
  今般少督学柳本直太郎外二名之内一人随行府下管立小学校巡視致シ候旨別紙之通達相成候ニ付此段申置候也
  明治七年一月十二日
 
  今般少督学柳本直太郎及拙者共之内一人随行府下官立小学校別紙日割之通巡視致シ候条掛リ之内一人当日出校有之度此段及御達候也
 少視学 辻   斐
 中視学 中村六三郎
  東京府学務課御中
    追テ各校別ニ試験法ヲ取設クルニ及ハス平日之通リ授業有之度事
  (予定)  一月十三日 午前 鞆絵学校  午後 桜川学校
       一月十四日 午前 御田学校  午後 茜陵学校(赤坂)
 
  本日御田学校茜陵学校へ臨視可致候処柳本小督学儀差掛リ御用向相生候ニ付明十五日右両校へ罷越(マカリコス)可申候此段御承知有之度候也
  明治七年一月十四日
 第一大学校督学局
  東京府学務課御中
 
 この3通の公文書は、「学制」がしかれたころの国の積極的な教育督励主義をあらわしたもので、ここに名前のあがっている柳本は、アメリカから帰朝したばかりの新進気鋭の官僚である。第一大学区の「学制」施行の最高責任者の巡視を迎える各学校の中には、「平日之通リ授業有之度事」の追記があるように、特別に生徒の試験を行わなければならないと受け止めた所もあったようである。
 その少督学の「東京府下学校巡視状況」が、総論、学校、教員、生徒の4項目によって報告されている。これによると、明治7年当時の港区地域の学校の実態が垣間(かいま)見られるので、煩をいとわず、以下に全文をかかげてみたい(『文部省第二年報』)。
 
   東京府下学校巡視状況
   総論
  東京府ハ第一大学区本部ニシテ最モ衆庶ノ嘱目(ショクモク)スル所ナレハ教育ノ事亦宜シク其標準ヲ期セサルベカラス夫レ都会軽佻ノ人民ハ学校ヲ藐視(ビョウシ)スルノ旧習脳髄ニ浸入スル最深キガ故ニ誘導ノ道最モ難シ是ヲ以テ其勧奨説諭ノ如キモ之ヲ徐々ニ付シ其成功ニ至リテハ素ヨリ永遠ニ期スルヲ以テ教育ノ進歩モ亦コレニ従ハサルヲ得ス現今設立ノ小学公私合セテ八十八校生徒既ニ教場ニ充チ当時其入学ヲ許ス能(アタ)ハサルモノアリ然レトモ暫(シバラ)ク変則家塾ニ於テ適宜ノ教育ヲ受ケシムルモノ少カラス是レ府下小学ノ設ケ未夕普子カラスト雖就(イエトモ)学生徒ノ多キ所以ナリ今其景況ノ概略ヲ記スルコト左ノ如シ
   学校
  府下学校中稍(ヤヤ)見ル可キモノ左ノ数校トス
  鞆絵 湯島 番町 礫川 久松 桜池 茜陵 並木 錦華 土屋(私立) 阪本
  府下新築ノ学校十数校アリ然レトモ区内就学者ノ多寡(カ)ヲ量リテ之ヲ経営セシモノニ非ルカ故ニ生徒已ニ教場ニ満チテ入学ヲ許ス能(アタ)ハサルニ至レルモノナリ
   教員
  本府構内ニ教員講習所ヲ設ケ家塾ノ師タルモノヲシテ交番来リテ小学教授ノ方法ヲ学ハシム曩者東京師範学校卒業ノ訓導林多一郎ヲ該府ニ派遣セシカ幾ハクモナクシテ椽(トチ)(栃)木県官ニ転任セリ次テ金子尚政ヲ講習所ニ在勤セシムト雖モ従前ノ教則ニ依遵スルヲ以テ未タ授業方法完全ノ地位ニ至ラス
   生徒
  生徒ノ学歩ハ湯島番町ノ両校二於テハ已ニ上等小学科ヲ卒業スルモノアリト雖トモ教授ノ方法未タ精密ナラサル所アルカ故ニ果シテ其学力ニ達セシヤ否ヤ確然之ヲ保証スルヲ得ス且府下工商ノ子第未タ下等小学科ヲ卒ヘサルモ年齢十歳以上ニ至レハ彼ノ年季奉公ナルモノニ出スヲ以テ中道ニシテ退学スルモノ多シト云フ定期試業ノ時ハ毎校学務官及学区取締等臨席シテ生徒ノ優劣ヲ判案シ之ニ賞品ヲ与フルヲ例トス然レトモ教員教授ノ精疎生徒学歩ノ進否等ニ至テハ深ク意ヲ注セザルモノヽ如シ
 
 この報告書の内容を箇条書きに略記してみると
 
  (1) 東京府下の小学教育は、全国に範を垂れるべき立場にある。
  (2) 江戸の遺風を受けて新学制になじみ難いので、その成果をあせってはならない。
  (3) 認可の公私立小学校は88校で、生徒の収容も極限であるので、変則家塾を充当して教育の普及を図っている。
  (4) 88校の中でやや見るべきものがある学校として11校挙がっているが、本区では鞆絵(ともえ)、茜陵(せんりょう)(赤坂)の2校が入っている。
  (5) 家塾の教員再教育を府庁構内に設けた教員講習所で行っているが、指導教官の問題などで所期の目的を達していない。
  (6) 府下で2校、上等小学科卒業生を出しているが、果たして学力認定が妥当であるかどうか疑問である。
  (7) 10歳以上になる児童は、下等小学科を修了しなくても、年季奉公のため退学する者が多い。
  (8) 定期試験の際、優秀な者に学務官・学区取締等から賞品を与えているが、教授と学習効果とのかかわりには、深く意を用いていない。
 
 以上のような査察結果をみても、「学制」初期の教育の実態は、理想と現実の間に大きなギャップがあったことがわかる。しかし、東京府のめざした小学校教育が、公立の小学校設立と合わせて多くの私立の小学校を育成して、児童の就学率を高めると同時に、近代教育をめざす新しい指導法による授業の成立を期して教員養成に努めるなど、就学と教員養成の2面から取り組んでいた様子がわかる[図7]。

[図7] 明治10年ごろの授業の様子(国立教育政策研究所教育図書館貴重資料デジタルコレクション)

 指導について明治9年の「小学教則摘要」をみると、次のように実践し教育効果を高めようと「東京府年報」に記している。
 
  一 毎級六か月の習業と定め、学術の進歩によって増減の斟酌(しんしゃく)もある。
  二 下等六級以上の「問答」に読物を用いる時は、要旨を暗記させる。
  三 下等六級から二級までは、珠算と筆算を平行して教える。
  四 下等五級以上の書取は、作文に換え書法と図画を並び教える。
  五 下等養生課は、西洋養生論、啓蒙養生訓を口授する。
  六 下等修身課は、童蒙教草 伊蘇普(イソップ)物語 小学生徒心得(東京府制定)あるいは、西国立志篇などを口授する。
  七 上等養生修身課は、教科書によって生徒自身で講究させる。
  八 下等二級以上は、日本の治体百官の分掌や違式註違等の日用に必要なものを口授する。但し問答は修身課の余暇にする。
  九 上等八級より、文談の課を設けて、作文の方法を説明する。下等は別にこの課を置かず、作文指導の時に説明する。
  十 上等六級以上の読物は、生徒自ら読書させる。
  十一 上等学科中、万国地誌は、今、適当な本が見当たらないので、しばらくは、輿地誌略を用いるが、歴史の部は教えない。
  十二 毎級、必ず体操の課を置くが、下等小学生と女児生徒は、体質がまだ弱いので、別に体操術を設けて男子上等生とは別に行う。
  十三 上等、下等それぞれ卒業した後は、一か月間の温習時間を定める。
 
 教科書をみてみると、下等小学では、師範(しはん)学校編、文部省発行のものが多く、教則も師範学校の「小学教則」に合わせて、米国で実践しているペスタロッチ主義の実物教育に則った近代教育をめざしたものといえよう。
 東京府は明治10年5月に「村落小学校則・教則」を定めている。『文部省年報』所収の「東京府年報」によると、今までの「小学教則」は 「官立師範学校ノ教則ニ準拠」して、8年間の在学期間として、管下一斉に施行してきたが、「郷村ニ至リテハ自ラ都下情態ヲ異ニスル所」があるとして、明治10年に別に「村落教則」を定めて「其土地ノ状景ニ応シ施行セリ」と記されている。「村落教則」は下等・上等ともに5級に分れ、毎級6カ月の修業として各々2年半の在学期間になっている。
 教科は、「読物・算術・習字」とし、読書算筆が一般小学に比べて程度が低くても、日常普通の事に習熟させること、算術は珠算を用いること、口授の科を設けて、諸布達、物理や経済あるいは古今忠臣孝子などの事跡を講じたり生徒に話をさせたりして、修身を重んじ識見を高める助けにすることとしてある。
 東京府では、明治10年の「村落教則」制定に引き続き、翌明治11年3月には、次のような簡易科4カ年、尋常(じんじょう)科6カ年という教則の実施を文部省に伺い、その認可を得ている。
 
  府下公立小学教則是迄尋常村落ノ二様ニ区別シ施行致シ来候処尋常教則ハ高尚ニ過キ村落教則ハ農家ニ偏シ居リ未タ其当ヲ得ス実際上難被行場合モ有之候ニ付今般更ニ簡易科学期ヲ四ヶ年トス・尋常科学期ヲ六ヶ年トスニ区別シ民間適切ノ学課ヲ撰ヒ養成致度(略)
 
 そして東京府は、学区取締・公立小学校教員へ次のように達した。
 
  小学ハ幼童普通ノ教育ニシテ一般ノ人民等シク可相学ハ勿論ニ候ヘトモ自ラ都鄙(トヒ)貧富ノ別アリテ一概ニ行ハレ難キ場合モ有之殊ニ商估(コ)農工ノ子第ニ至テハ多クハ父兄ノ業ヲ助ケ永ク学文ニ従事スルコト能ハサルニヨリ終ニ半途退学シ却テ教育ノ本旨ニ背キ候事情モ有之ニ付今般詮(セン)議ノ上是迄ノ教則ヲ改メ更ニ左ノ三種ニ分チ教則別冊ノ通リ制定候条適意入学為致候様父兄ヘ懇諭シ本年前定期試験後ヨリ施行可致此旨相達候事
  但朱印外ハ七大区一二小区八大区一二三四小区十大区一二三四小区十一大区一二三小区ヲ除クノ外ハ必ス簡易科教則ヲ施行可致尤不得止事故有之尋常教則施行致シ度区内ハ其旨可伺出事
   一 男子尋常科     学期ヲ六ヶ年トス
   一 女子尋常科     学期ヲ六ヶ年トス
   一 簡易科       学期ヲ四ヶ年トス
 
 これによれば、同じ小学校内に三つの課程を分け、父兄の希望によって「適意」選ばせた。4年制の簡易科を分離し、尋常科の3級以上は男女別の組をつくらなければならないので、組数もふえ、教員も必要になってきた。これまでの等級から改正課程の相当級への組がえに当たって父兄と学校とのトラブルなど、たいへんな混乱であったことと思われる。
 赤坂学校と担当の学区取締は次の様に東京府へ願い出ている。
 
  今般教則御改正相成候ニ付テハ尋常科三級以上男女分離可仕筈(ハズ)ニ有之候得共当校ニ於テハ維持ノ方法モ未タ相立タス随テ教員モ不足致シ居候折柄既ニ簡易科ヲ分チ又々男女ヲ引分候節ハ一校ノ生徒十五級ニモ相分レ僅カ七名ノ教員ニテハ授業何分手廻リ兼ネ自然疎漏(ソロウ)ニモ陥リ可申哉(ヤ)モ難計ト甚ダ苦心仕候付テハ前顕分離見込相立候迄差向ノ処男女混淆(コンコウ)致シ授業仕度此段御聞済被下置候様奉願候
 
 府も「書面ノ趣己(オモムキヤム)ヲ得サル事情」として認めており、このような混乱は、赤坂学校だけでなく、他の公立小学校でも問題であったと考えられる。
 文部省は、次の「教育令」への移行を考えてか、明治11年5月、「小学教則」を廃止した。そして、明治12年9月29日自由教育令といわれる「教育令」を、今までの「学制」に代えて実施することになった。
 
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