東京府は、「小学開設已来日尚浅シト雖モ、東京ハ文学淵薮(エンソウ)ノ地タルヲ以テ公私互ニ相実益シ自然ノ念ヲ生シテ」とし、公・私立小学校の相補っていくことを認めている。
しかし、港区地域の私立の小学校の状態は、明治10年の私立小学校開学願からみて、上下等のある小学校は、芝地区の共栄学校の他2、3であり、ほとんどが下等小学校であった。そして、教則は「東京師範学校ノ教則ニ依ル」として、定められた教則の項目がのっているが、教科として「読書、習字、算術」の3科のものが大部分である。このことは校主が「教員講習所」での講習終了による開学であっても、一朝一夕には新しい内容や指導法による授業が十分には行われず、相変わらずの寺子屋式授業からぬけ出ることのできない状態にあったのではなかろうか。
『文部省第六年報』(明治11年)における学監ダビッド・モルレーの「東京府下公学巡視申報」は私学の項の中で次のように報じている。
現今東京府下ニ存在スル私学中ニハ極メテ古代ヨリ子孫連綿伝承シテ既ニ数世ニ及フ者アリ此等ノ学校ハ其近隣ニ名声高クシテ且ツ其門生故旧ノ尊宗ヲ受クルコト盛ナリ
私学中ニハ累世伝来ノ教科及教授法ヲ墨守シテ更ニ変改スル所ナキ者少シトセス而シテ人民モ亦己カ嘗テ受ケタル所ノ学風ニ因テ其児孫ヲ教育スルコトヲ好ミテ近年以来施行スル所ノ教科教則ニハ頗ル信ヲ措カサルモノ多シ
私立小学校の新教則への転換が、あまり円滑ではなかったことを伝えている。
明治11年3月の、第八大区一小区青山北町に開学した私立小学遷橋(せんきょう)学校の開学願には次のように記され、東京府の承認を受けている。
本校ハ小学年令ノ子弟ニシテ公立小学校アリト雖モ教場満員或ハ父兄ノ意向ニ依リ空ク就学ノ期ヲ愆(アヤマ)リ又ハ貧困ニシテ学資ヲ憂フル者少カラス故ニ此等ノ子弟ヲ教育セン為ニ開設スル所ナリ
こうして私立小学校は、積極的に多くの子弟を受け入れたものの、施設や教師などの条件には恵まれず、公私同等の実現はむずかしかった。