試験法の実施

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 前にも触れたように(第2節第1項(2)107ページ参照)、生徒の進級は、すべて厳しい試験によって行われ、教則の実践とその成果を確かめるものでもあった。特に大試験は督学局に届出で、その承認を得て実施され府第五課吏員、学区取締、師範学校教師、学校世話掛と区正副戸長のうち1人の立会の下、公開で行われた。そして日常の授業督励と、就学奨励を合格者数をもって示そうとしたのであろう、『文部省年報』は毎年その合格・不合格数を報じている。
 

[図8] 試験場図

 
 明治6年の試験事例記録が残され、本区の学校の記録もある[図8]。
 
  当府下官立小学生徒学業別紙日割之通試験以多シ候間此段御届オヨビ候也
   五月廿四日東京府学務課
    督学局御中
 
 ここで行われた試験の内容と方法は、およそ次のようであった。
 
  府下官立小学生徒試験方法并日割別紙之通取極候条則御廻シオヨヒ候也
    五月二十七日
  午前八時ヨリ午後第二時迄之事
    大試業日割
    六月七日八日 第壱番小学 鞆絵学校
    同 廿日   第弐番小学 桜川学校
    同 廿四日  第参番小学 御田学校
       (他 十二校略)
 
  本月七日ヨリ七月三日迄小学生徒大試業イタシ候ニ付別紙之通府下ニ相布令候条則及御届候也([図9]参照)
   六年六月四日
        東京府学務課
   督学局御中
 

[図9] 大試業別紙内容の一部

 
 [図10]は、東京府全体の上下等小学卒業生の数である。私立の小学は「教則ヲ異ニスルヲ以テ」として、塾主の教則実施が、まだまだ公立の小学校のレベルには遠く、「比較スル能ハズ」と報じている。公立の小学校においても、明治9年の下等小学卒業者364人、そのうち上等小学第8級に進む者は204人、約3分の1は下等小学の卒業で終っている。
 

[図10] 東京府の小学生徒卒業者数(『東京府年報』)

 
 明治10年10月発行の新聞『教育新誌』は、
 
  府下ノ小学校皆日ヲ遂ヒテ旧面目ヲ一新セシガ其最タル鞆絵学校トス…過日定期試験ノ時ハ文部省御雇外国人モルレー氏モ来リテ席ニ臨メリ(略)
 
と報じ、また、明治11年2月の『東京曙』は、
 
  明治十年の公立学校後定期試験に及第賞与を受けた生徒、六十校、六千四百八十名の中で、鞆絵校三百七十名、桜川女校二百七名、御田校百八十五名、南海校百九十九名、麻布校二百十名、桜田校二百二十四名、南山校二百二十名、赤坂校二百二名
 
と、港区地域の公立小学校の人員を報じている。寺子屋教育から新しい教育制度に変わり、学校教育への関心も高まっていたので、小学校の定期試験や成果を、新聞や雑誌が取り上げたものと思われる。この定期大試験で、鞆絵学校より、小学全科卒業者が4名も出て、卒業者の嚆矢(こうし)として大評判になったと伝えられている[図11][注釈6]。
 

[図11] 下等小学五級卒業証書・明治8年