「学制」から割合弾力的な「教育令」へ、更に、大小区から15区6郡と、めまぐるしい教育行政の変化の中にあって、東京府の教育への対応は比較的緩慢であったようである。そうした中で、芝、麻布、赤坂の3区は、小学校の増改築に努めるとともに、着々と教育内容の向上に努力していた。
東京府は、「東京府小学教則」を公布(明治11年4月)し、「小学試験法」を改正(同年9月)して、この新たな教育政策の動きに対処していた。それは、先にあげた、明治11年(1878)3月の、文部省より認可された男女尋常(じんじょう)科6カ年、簡易科4カ年の教育内容であり、その実践を確認するための、より厳しさを増した試験の内容とであった。
当時の授業がどのように進められたかを、「教則」によって定められた「小学授業法」により察することができる。
明治11年の「小学授業法」の弁言には「先般定ムル所ノ教則ニ拠リ毎級授業ノ法方((ママ))を細記シ」として「小学ニ従事スル者宣シク此旨意ヲ領シ創意発明スル所アラバ速ニ開陳センコトヲ要ス」として、授業法の確立に努めようとしている。東京府では、江戸時代以来の寺子屋、私塾の教育の伝統が強かっただけに、教則による内容の近代化とともに授業の近代化こそが重要な課題であった。
この「小学授業法」には、問題の提示、教材の取扱い、課題の解決方法など、実際の指導に即して、教科書を読む順序や内容、計算の易から難へなどと「細記」してあるが、どのように実施されたか具体的な資料は見当たらない。公立学校の教員の講習や試験による再任用によって、質の向上に努力していたころなので、意欲的に追究、実践されたと思われる。
しかし、その現状は、明治13年10月の「東京府下学事巡視功程」にあるように、条件も悪く、その実効は十分ではなかったようである。
視察した小学校(公立7校、私立8校)のうち、港区地域の公立小学校では、南山学校(麻布区)、麻布学校(麻布区)、私立では、共栄学校(芝区)、宮下学校(麻布区)が入っている。その報告書の概要は次のようである。
私立小学校では、「狭隘(キョウアイ)ノ室家中夥多ノ生徒ヲ置キ」肩がこすれ膝(ひざ)が接して体熱が伝わるような部屋で、異臭があって衛生に悪い環境である。次に、1人の教師が数級の指導をしたり、夫妻で6、7級合わせて百数十名を教授するなど「指令徧(アマネ)ク達セス教誨徧ク行ハレス」として、教師の学力がすぐれていても良い教育などできるはずはなく、まして、「教師ノ学力浅劣ナルニ於テヲヤ」と、その教育効果が寺子屋の域を出ていないとしている。そして最後に「学科ノ権衡(ケンコウ)ヲ誤ル」として、教師の学力が不足するのか、父母の希望によるのか、習字一科を教授するのに学期の大半を使い、他の学科がおろそかにされているといっている。
この三つの欠陥について、「私立小学中此三大病ノ一ヲ有セサルモノ殆(ホトン)ト稀ナリ」と評価している。三つを合わせ持つ学校もあって、この三大病をなくすことが私立の小学校では先決であるといっている。
また、公立の小学校は、私立の三大病は少なく、あっても微々たるものであるが、「教員授業ノ不良ト学術上所用ノ器械ニ乏シキト書籍ノ不善ナルトノ点ニアルカ如シ」とあり、首座教員の指導力、教授器具の充足、良い教科書の実現が必要であると言っている。そして、私立小学校に比べれば、「雲泥ノ隔リ」があるけれども、学問は読書算のみとする風習の矯正(きょうせい)と教師の教育への自覚を直さなくては解決しないとしている。
そして、公立は私立の4分の1の数しかない現状であり、「許多ノ学令児童就学ノ道ナキ」ため、私立においては教員の試験法を設け、教室の広さに応じた生徒の数を決め、一教室で数級の復式を止め、小学必修の科目の程度を定める法を整備し、公立においては、「授業ノ不良ナク器械ノ乏シキナク書籍ノ不善ナク」するとともに、法のみでなく視察監督を厳重にするとともに、其の任に当たる者を「鼓舞誘導シテ深ク注意セシムルニ帰スル」と結んでいる。
芝・麻布・赤坂区の現状もこのようであったろうと想像できる。