「女礼式(じょれいしき)」の実施[注釈8]

140 ~ 143 / 417ページ
 「教育令」の改正では、修身科を重視していた。そして明治14年、各区役所、区学務委員宛に、府知事より「女礼式」施行について次のような文書が出されている。
 
  小学女子尋常科中ニ女礼式ヲ設ケ其式日別紙ノ通制定候条此旨相達候事但シ右式卒業ノ女教師アル校ニ限リ訓習セシムヘク仍(ナ)ホ実施ノ時日ハ届出ヘシ
    明治十四年三月十五日
 
 これに先だって、小笠原清務は、東京府の要請により次のように女教師の講習を引受けている。
 
  今般御府下公立小学裁縫科中へ女礼式御編入相成候ニ付各校女教師へ右礼式伝習之儀御依嘱之段府知事ヨリ御下命之趣謹テ領承仕候也
    明治十三年十月廿八日
               小笠原清務 印
     学務課長 伊藤 徹殿
 
 明治14年の飯倉(いいぐら)学校[注釈9]の沿革誌には、「五月十四日、初メテ礼式ヲ生徒ニ課ス」とあり、南山学校の沿革誌には、「女生ニ礼式ヲ課スルヨウ達セラル」と記され、はやくも女礼式の実施が始められた。
 飯倉学校では、東京都の達しの2カ月後に女礼式の授業が実施されている。当校には女礼式伝習修了の女教師がいたわけで、『飯倉学校沿革誌』に「明治十年十月、裁縫教員命ヲ奉シ小笠原某ニ就キ女礼式ヲ伝習セリ」と記してある。東京府は、「生徒成業ノ後各校へ派出セシムルニ際シ小笠原ヲシテ各校ヲ巡回セシムル」ことによって、小笠原累代の作法理念を教育制度にとり入れたのである。
 明治15年の東京府の「小学教則」にはこの女礼式が修身科中に定められ[注釈10]、生徒の起居動作を通し、形から入って魂を作ろうとした意図が、修身科重視の「教育令」改正によって定着するようになった。女礼式は前期3級以上から1週1時間の授業であった。
 

[図14] 女礼式伝習の願(東京都公文書館所蔵)

 
 港区地域の学校でも、明治8年の桜川学校が桜川女学校と女子のみの学校に変え、明治10年の桜田女子小学の誕生、同15年麻布学校高等科の男女別教室など、皆女子の特色を生かして教育しようとした営みではある。女子に対する裁縫、女礼式の特設は、こうした傾向にそった実際的な対処であった[図14]。
 「教育令」で「凡学校ニ於テハ男女教場ヲ同シクスルコトヲ得ス 但小学校ニ於テハ男女教場ヲ同シクスルモ妨ケナシ」としていた。男女共学になるのは、太平洋戦争終了後からであった。
 
関連資料:【文書】小学校教育 女令式訓習
関連資料:【文書】小学校教育 女礼式開業届
関連資料:【文書】小学校教育 小学女生徒の着座
関連資料:【学校教育関連施設】