唱歌の導入と運動会

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 明治14年以降の各学校の沿革誌をみると、次のような記録がみられ、体操、唱歌、運動会などの新しい内容が実践されてきたことがわかる。
 
  明治十四年 初メテ体操ヲ課ス(飯倉学校)
  同 十五年 物理器械ヲ購入シ之ヲ運転シ生徒ニ示ス(飯倉学校)
  同 十六年 初メテ唱歌ヲ女生徒ニ課ス(飯倉学校)
  同 十七年 北米万国導覧会ニ生徒ノ作品ヲ出品シ賞ヲ受ケル(南海学校)
  同 十八年 府下小学校運動会参加(文部省体操伝習所)(飯倉学校)
  同 十九年 麻布区公立小学校聯(レン)合運動会(青山ノ原)(飯倉学校)
  同 二十年 教則ニヨリ唱歌高等科生ニ課ス(南山学校)
  同 二十年 麻布赤坂聯合公立小学校運動会、御殿山ニテ(南山・麻布学校)
 
 文部省は、唱歌の教育的な効果を委員を挙げて検討し、教科としての設置に踏み切った。作曲された歌曲を『小学唱歌集』として刊行し、内容や指導の方向づけをした。明治13年、府下の公立小学校に唱歌の科目が加えられ、同14年府学務課は、文部省の唱歌図を各区役所へ配布した。港区地域の小学校でも、明治16年ごろより唱歌が実施されはじめた。
 「学制」における「体術」は、「教育令」で「土地ノ情況ニ随ヒテ罫画唱歌体操ヲ加エ」という中で次第に重視されてきた。
 明治17年、体操伝習所が、東京府に対して別課伝習員の派遣を要請、同18年、東京府は、小学校生徒体操奨励会開催を各区長に奨励するなど、体育が学校教育のなかで特に重視されるようになってきた。
 港区地域の学校でも、運動会や連合運動会が行われるようになり、前に掲げたような、学校日誌への記録もふえてきている。図画・唱歌・体操などの教科内容が次第に充実し、確立してきた時期であった。
 
関連資料:【文書】小学校教育 生徒体育会