「小学校令」の実施

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 明治19年(1886)4月10日、「師範(しはん)学校令」「小学校令」「中学校令」「諸学校通則」を公布、3月公布の「帝国大学令」とともに学校教育の基本法令が整備された。
 また、教育制度の根幹を小学・中学・大学に組み、小学を尋常(じんじょう)・高等の各4年、中学を尋常5年、高等3年とし、高等小学2年から尋常中学へ、そして高等中学を経て大学に進むという進学順序が定められた。
 この「小学校令」では、授業料をとらない簡易小学校を設けて、教育普及の最低線を維持しようとしている。
 東京府は、実施方法は府知事県令の定むるところによるとの訓令により明治19年9月、府令第30号をもって「小学校ノ学科及其程度実施方法」を定めた。
 明治14年の「小学校教則綱領」と比べてみると、修身は「簡易ノ格言事実等ニ就テ徳性ヲ涵養(カンヨウ)シ兼テ作法ヲ授ク」(初等科)、「稍高尚ノ格言事実等ニ就テ徳性ヲ涵養ス」(中高等科)として、週3時間あったのが1時間30分になっている。しかし、教科書に依っての指導になり、より系統的に指導できるようになっている。
 算術では、筆算・珠算とともに暗算を強調するようになった。歴史は中等科の2年後期と3年で「国初ヨリ平氏ノ末ニ至ル」「頼朝総追捕使トナルヨリ豊臣氏ノ末ニ至ル」「家康将軍トナルヨリ現時ニ至ル」とあったものが、より体系化され、高等小学の2・3・4年に配当されてより高学年に、そして1年半の学習が3年間に学習するよう比重が重くなっている。変わったのは、科学にあたる教科が、博物・物理・化学・生理と分けられていたのに対して、「理科」という名で高等小学に登場したことである。その内容は、人生に関係深く、日常目につく自然の事物・現象を40あまり羅列しているが、その扱い方は、5年後の「小学校教則大綱」まで待たなければならなかった。
 体育は体操伝習所の講習や運動会等の導入によって、遊戯(初等科)、徒手運動(中等科1・2年)、器械運動(中等科3年高等科)とあったのが、内容的に整備・充実したものになった。
 また、特筆すべきことは、教科書が、修身、読書作文、習字、地理歴史、理科に配当されたことであり、このことによって東京府下の小学校の教授内容が統一されていったものと思われる。