授業法としては、毎時間の指導の中での徳目的強化が加味された以外、発展はなかったようである。開発教授は模索が続いていて、明治11年に示された「小学授業法」(前掲(2)134ページ参照)の域を出ず、知識の暗記を主とした学習であり、試験による及第・落第の判定によっての学習効果の評価が続けられたのである。
開発教授法が唱道され、実践の試みもでてきたころ、一方には、道徳教育の軽視、忠孝仁義の道徳教育の不徹底の批刊が出てきていた。
明治20年代にはいると、森文部大臣の「国家の須要に応ずる教育」や「臣民の教育」への諸政策とともに、教育界にはヘルバルトの教育学が導入された。当時、政府は、憲法や警察・地方制度などをドイツにならおうとしていた。教育制度や教授法もまたドイツに学び、教授法は、開発教授から道徳を重視する品性陶冶(とうや)・5段階教授法が注目されていった。
芝・麻布・赤坂各区の公立小学校の日誌には次のような記載がある。
明治一九年職員会デ毎月一回教授上ノコトヲ研究評論ス(御田小学校)
同 二〇年尋常科高等科ヲ併置(鞆絵小学校)
同 二〇年規則改正デ尋常高等ノ二科トス(麻布・飯倉小学校)
同 二〇年教則ニヨリ唱歌ヲ高等科ニ課ス(南山小学校)
同 二〇年教則ニヨリ英語授業開始(南山小学校)
同 二一年教育研究会ヲ定期的ニ開クヤウニナル(南山小学校)
同 二一年兵式体操ノ講習ヲ受ク(南山小学校)
同 二二年小銃ヲ購入シ兵式体操ヲ課ス(麻布小学校)
これらの具体的な内容は不明だが、記録でみる限り、教則への対応は早く、教則と教科書を規定した文部省や府の教育政策は、あまり抵抗なく受け入れられ、進められていたようである。
これらの経過をみると明治18年8月、「教育令」が再び改正され、それから1年を経ずして、明治19年4月、初めの「小学校令」が公布され、続いて同年「小学校ノ学科及其程度」が省令で示されるという急変ぶりであった。その4年後の明治23年10月に「小学校令」は改正され、更に充実し、その直後に「教育ニ関スル勅語」が渙発(かんぱつ)された。同23年の「小学校令」第22条は「小学校教則ノ大綱ハ文部大臣之ヲ定ム」と規定した。新しい「小学校教則大綱」は、明治24年11月、教育勅語の趣旨をとり入れて示されたのである。
激しい流れで教育の近代化が進められていく様子がよくわかり、港区地域の学校での対応も、たいへんだったであろうと思われる。