[図22] 明治初期の子どもの様子(『日本の歴史』)
明治初期における子供たちは、どのような環境の下に生活していたであろうか。当時の様子を知る手掛の一つとして、『風俗画報』(明治22年)、『新撰東京歳時記』(明治31年)、『東京風俗志』(明治32年)の記事がある。
子供の地域での生活を知るための明治前期の資料がとぼしいので、時代は後期にまたがるが、前述の資料のうち明治20年代を中心として、港区地域に関するものと、近隣他地域の資料を参考にして、当時の子供たちの生活環境や生活の様子をうかがう手がかりとする。
潮干ハ今ハ四月ヨリ五月頃ナレトモ昔ハ三月三日ニ限レルモノヽ如シ最モ汐(シオ)ノ退(ヒ)クコト春ノ此時季ヲモテ第一トス芝浦高輪品川沖佃島淀川洲崎中川ノ沖等へ早旦ヨリ船ヲ出シテ時刻ヲ俟(マ)チ汐ノ全ク干タル時蠣蛤(カキハマグリ)小貝其他砂中ノヒラメナト拾ヒ取ルナリ今モナホ其季ニ及ヘハ此遊ヒ変ルコトナシ(『風俗画報』)
五月五日ノ菖蒲節供(ショウブセック)モ維新ノ後頓ニ廃レシヲ近年漸ヲ追ウテ興レリ……菖蒲節供ノ日ニ昔ハ菖蒲ト藁(ワラ)トヲ束ネテ家ノ檐端(ノキバ)ニ挿(ハザ)ミシカ今ハ殆ト廃レヌ此日都下ノ湯屋ニテハ其前日ヨリ菖蒲湯ヲ設ク女子供ノ菖蒲ノ葉ヲ箭(ヤ)ノ形ニ剪(キ)リテ頭ニカサスコトアリコレ毒虫ノ害ヲ攘(ハラ)フトイヒ伝フ (『東京風俗志』)
蛍、此月(六月)上旬ヨリ好シ麻布古川辺広尾等何レモ飛々点々明復夕減恰モ星斗ノ江上ニ流ルヽガ如キ美観ヲ呈セリ(『新撰東京歳時記』)
弥生(ヤヨイ)ノ春ニ空晴テ畑アタヽカニ日ハ静ニ胡蝶翻々(ヘンペン)菜畦(ケイ)ニ舞ヒ野鶯水ヲ隔(ヘダ)テ園林ニ啼キ春流緑ヲ漲シテ塘上重多々タリ此時ニ方リ冠童稚女相携テ紅ヲ摘ミ翠ヲ拾ヒ郊原遙ニ夕陽ヲ帯ヒテ帰ル一日ノ行楽興アルヘシ南ハ広尾目黒ノ野渋谷青山麻布ノ地北ハ王子ヤ飛鳥山日暮里根岸向島野辺ヤ田圃ニ出テ見レハスミレ蒲公英(タンポポ)ニレンケ草アサミ嫁菜ヤ嫩芽(ワカメ)草時ヲ笑顔ニ伸ヒ揚テ五色ヲ彩リ菜ノ花麦ノ浪極目一望野ニ天然ノ綿繍(キンシュウ)ヲ織出シテ縟(ジョク)ヲ布ケルカ如シ (『新撰東京歳時記』)
当時の港区地域の自然や行事の実情と、そこに生活する子どもの姿を見出すことができよう。また、子供たちの生活と切っても切れない関係にあるものに縁日がある。
都下ノ神仏概ネ月ニ一二日ノ賽日アリ多キハ六日ニ至ル俗ニ縁日トイフナヘテ世ニハ薬師ハ八日金刀比羅ハ十日観音ハ十七日地蔵及ヒ清正公ハ廿四日天神ハ廿五日不動ハ廿八日毘沙(ビシャ)門ハ寅ノ日弁財天ハ巳ノ日摩利支天ハ亥ノ日ト定ムレトモ………参詣ノ士女押合ヒヘシ合ヒ袂(ベイ)雲汗雨雲ナラス就中(ナカンズク)最モ盛ナルニ茅場町ノ薬師蠣殼(カキガラ)町ノ水天宮虎ノ門ノ金刀比羅神田小川町ノ五十(ゴトウ)稲荷(イナリ)牛込神楽坂ノ毘沙門天日本橋西河岸及ヒ京橋銀座ノ地蔵本郷四丁目ノ薬師下谷上野ノ麻利支天小石川福聚院ノ大黒芝口ノ日比谷稲荷赤坂ノ豊川稲荷本所三ツ目ノ玄徳稲荷芝金杉ノ毘沙門天薬研堀ノ不動麻布ノナタレ帝釈(タイシャク)等トス斯クノ如クシテ一祠一寺ノ賽(サイ)日月六日ノ多キニ及フモ常ニ賽客ヲ減セス (『東京風俗志』)
尾崎紅葉の『紅白毒饅頭(まんじゅう)』(明治24年)には、神楽坂毘沙門(びしゃもん)の縁日で売られていた品物が記録されている。「往来の両側に市を成す床店の色々品々、われらより子供衆が御存じ」として、「大白飴、煎豆、かるめら、文字焼、椎実、炙栗、柿、蜜柑、丹波鬼灯、海鬼灯、智慧の環、智慧の板、化物蝋燭(ろうそく)、酒中花、福袋、玻璃(はり)筆、紙製女郎人形、おっぺけ人形、薄荷(はっか)油、薄荷糖、皮肉桂、竹甘露、干杏子(あんず)、今川焼、まるまる焼、煮染の田楽、浪花鮨(なにわずし)、大見切半値の蟇口(がまぐち)、洋紙製小函、おためし五厘の蜜柑湯、櫛(くし)、簪(かんざし)、飾髪具、楊枝(ようじ)、歯磨、箸、箸箱、老女の常磐(ときわ)津(づ)、玩具、絵雙紙(えそうし)、銀流し、早継の粉や手品の種本」などがあげられている。
『港区歳時記4』(昭和53年)には、当時港区地域の縁日は、どこかで毎日開かれていたと書いてある。
当時の港区地域の自然と行事は、明治維新の混乱からすぐにも立直りをみせ、「学制」期には、江戸時代の様相を取りもどしていたものと思われる。
鞆絵(ともえ)小学校の卒業生であったユーモア作家の佐々木邦は、次のように回顧している。明治23年(1890)ごろをしのぶ手がかりとなろう。
学校で喧嘩すると、帰りにやろうということになる。奥歯に物のはさまっているような気がしたものだ。桜川小学校が近くにあって、放課後喧嘩に行ったことがある。お互に「何々学校馬鹿学校、お昼のおカズが目差しの頭」と歌って罵る。私は敵校の門内まで攻め込んで先生につかまって、説諭を受けたことがある。当時桜川という川が流れていて、私たちはそこで魚(ダボハゼ)を捕ったり泳いだりした。赤坂の溜池から水道の余が流れて来て綺麗(きれい)な水だった。
正月には、佩(たこ)揚げ、こま回し、羽根をついてスゴロクをやることや、大晦日には、新しい年をむかえる家の手伝いをして、芝増上寺などの除夜の鐘(かね)を聞くなど、当時の子供たちはめぐまれた自然環境と、多彩な行事にかこまれて育っていったものと思われる。