学校での生活

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 学校での生活は、なかなかきびしいものであったようである。公立の小学校の校則にそれをみることができる(第1節71ページ[図8]、鞆絵学校設立伺参照)。
 当時の一般社会のしきたりの1の日と6の日を休業としていたが、明治9年、文部省は一六制休業を廃して、今日のような日曜休業制に改めた。
 そして、教科書を持って通学し、休む時は保護者が屈け出ることや夏の短縮授業と、夏休み・冬休みの長期休業日があり、寺子屋時代は、時刻にはルーズであったようであるが、始業・終業や登校・下校の時刻が定められている。また、教室内でのきまり、日直(出席簿等)の仕事や、休み時間中の教師の看護など、現在の港区地域内の小学校とほぼ同じような学校生活が始まっていたことをうかがい知ることができる。ただ、入学時の厳しいきまりや試験の成績による進級と席次、そして男女児のきびしい区別は、今から考えると窮屈なものだったろう。
 一方、私立小学校は、設立願に塾則か校則を付して願い出ている。[図23]の私立飯倉(いいぐら)学校の校則を例にみてみよう。公立の小学校に比べて、非常に簡単に記してある。その中で特に注目されるのは、書籍、筆、墨等の無断での使用を禁じ破損した場合、弁償を求めていることである。
 このような校則(塾則)は、就学率の上昇と、公立学校の整備が進むにつれて、次第に細目がふえていった。
 受業料(授業料)は、家庭の経済にとってかなりの負担であって、子供の就学、公立学校へ行くか私立学校にいくか、どの段階の授業料を持っていくかなど、子供の精神的負担にもなり、進路にも深く関わっていたと思われる。公立学校は50銭・30銭・20銭・10銭の4段階(明治8年)に定められていたが、明治10年の「私学校明細簿」によると、松山学校20銭、綱島学校6銭2厘5毛より20銭まで、荒川学校10銭より5銭、島村学校6銭2厘5毛より12銭5厘まで、烏森学校13銭5厘より50銭まで、大沢学校10銭より25銭、黒沢学校12銭5厘などとなっていて一般に授業料が安く多様である。寺子屋からの継続のものも多く、師弟関係も継承し、授業料も安く、家庭経済の事情で減免もあったので、私立小学校が繁栄していたものと思われる。当初は、私立小学校へ通う子供の方が多く、服装や学用品・持物などの違いがあったが、たくましく生活していた。
 

[図23] 私立飯倉学校校則