明治3年(1870)政府は、東京府に対して小学校の設置を指令した。そして、政府からの次のような達しによる費用で小学校を開設した。
府学職員官禄生徒資用及ヒ学舎営繕書籍筆硯等一切ノ入費毎歳現米二千三百石御渡相成候事
この時開設された小学第一校(現鞆絵(ともえ)小)の「仮小学規則」によれば、学舎は6舎に分かれており、それを訓導(くんどう)1名、句読授(くとうじゅ)(助教)6名の教師たちで教育内容と学校施設の管理運営を行っている。
また、学校施設については、6名の句読授は各舎にあってそれぞれの校舎を管理するとともに「彼此ヲ不分同心協力シ共ニ校中諸務ヲ点検シ決ヲ訓導ニ取ルべキ」とあり、書籍・会計・生徒入退の仕事を交代で勤める仕組みであった。
仮小学の管理運営の責任者は訓導であり、それを句読授が補佐するというしくみになっていた。その後文部省が設置され、府の6小学は直轄学校となり、「小学教則」の実験校になるが、その結果が公立学校の管理運営にどう生かされたかは不明のようである。
「学制」では、文部省、督学局、地方官、学区取締、学校世話掛、という系列により学事を担任させることにして、全国を七つの大学区に分け、第一大学区(東京府を含む)の督学局が明治5年に東京府に開かれた。
文部省は、学校改革の趣旨を徹底させるため、藩校、郷(ごう)学校、私塾、寺子屋のまちまちの教育内容を、「学制」によるものに変えるためにひとまず廃止させ、あらためて開学願書を提出させ許可を与える措置をとった。これによって、文部省の、あるいは東京師範(しはん)学校の「小学教則」による小学校が、誕生したわけである。
文部省は、「学制」実施のために、小学校の設置・就学の督励と同時に教師養成に力を注いでいる。そしてその管理運営について、教育内容については教師による「小学教則」の実践を督励し、学校施設については、府県の地方官と各中学区ごとの学区取締によってなされるように企画した。
東京府は、私立小学校の存続と公立小学校との併立を施策として、教師育成の方途(教員講習所によ講習修了者の私立小学校の開設)を講じて、公・私立小学校の「小学教則」実現にむけて実施した。
東京府の教育財政は、教員給料、営繕、書籍、炭薪油費等支出3万円強に対して、学校積金10万円と他府県に比べ在来の積金を多額に持っており、18校(港区地域は鞆絵・桜川・御田(みた)・赤坂の4校)の公立小学校は最初官費と積金の利子でまかなわれ[注釈13]、受(授)業料や束脩(そくしゅう)(入学の謝礼)は積み立てて別校の取立てに当てるという状態であった。
港区地域での詳細は不明であるが、各大小区の区・戸長が学区取締となり、金銭出納や営繕の管理と、私立小学校の教育内容も教則に依るよう説得に当たることに力を注いだものと思われる。
また、督学局は明治7年「東京府下学校巡視状況」を、明治11年学監モルレーは「東京府下公学巡視申報」を「文部省年報」に載せ、学制実施の様子を監督している(第2節第2項(1)120、128ページ参照)。
関連資料:【文書】教職員 鞆絵学校訓導の心得