用地取得と設立の苦心[図24]

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[図24] 公立小学開業・開校届(東京都公文書館所蔵)

 
 港区地域の学校設立の記録から、学区取締の役割や苦心の様子をみてみたい。
 明治7年、内務省は大蔵省と協議の上、「壬申(ジンシン)中公布学制学校設立ノ箇所ヲ限リ」として、中学は1000坪、小学校は500坪以内を学校地所として無代価で下げ渡す政策を立て、太政官より府県に達した。
 
  諸学校ノ儀ハ学制ノ通人民共立可致ノ処創建ノ儀ニテ一時私費ヲ以難弁情実モ可有之ニ付学制中ニ掲載ノ中小学区学校設立ノ数ヲ限リ学校地所トシテ中学ハ千坪小学ハ五百坪以内ノ地ヲ無代価ニテ可下渡候条無税官有地ニ於テ便宜ノ場所ヲ撰ミ内務省へ可中出此旨相達候事
 
 この通達を受けて、明治8年9月25日、東京府の公立学校13校に関係ある戸長・学区取締の連署で、府庁宛に、次に記す受領請書を提出している。
 
  (前略)上邸又ハ屯所路等エ設立候分モ有之其他何レモ区内有志之徒献金等ヲ以建設候義ニ付官立之名ハ有之候共其実全区民共立之儀ニ有之候処最前地所御下渡方内務省エ伺出候節右等之情実ヲ以建家共一同御渡相成度旨懇々申立候処御示今中地所之儀而己判然致シ建家之儀ハ別段明文モ無之ニ付先以地所而己御下渡之儀(中略)而所請御払下等ニハ不及方ト存候間再応之伺ニ不及直ニ御下渡相成候儀ト可心得旨相達請書取置可申載別紙箇所書相副此段相伺候也
 
 この伺で知ることのできることは、従来官立の小学とは名のみで、その実「全区民共立之儀ニ有之」と区内有志の献金等で設立された学校であるとしているところである。「学制」当初の学校設立が全く地域住民の肩にかかっていたことを示す好事例であり、当時の学区取締の労苦も推測することができよう。
 明治6年に開設された「西久保巴町三拾四番地」(鞆絵小)、「愛宕下町四丁目弐番地」(桜川小)、「赤坂一ツ木町七拾五番地」(赤坂小)、の3校地が文書に記載されている[注釈15]。同じ明治6年に開校していた御田小学校は、当時薬王寺を借りていたため記載がない。
 
    中小学校地所願(控)
  第二大区四小区 西久保巴町三拾四番地
  小学校地所
  一表間口弐拾五間 一裏間口同断 一裏行弐拾間 此坪五百坪
  中学校地所
  一表間口九間五尺 二裏間口三拾四間五尺 一裏行東四十五間西二十五間
   此坪千六拾七坪五合
   右ハ第二中学区内中学校并一番小学鞆絵学校地所ニ御下渡被成下度別紙絵図面相添奉願候也
   明治七年十月
                 第二大区四小区戸長 深野好信
                 第二中学区学区取締 福島正成
 
 茜陵(せんりょう)学校(現赤坂小)[注釈16]の用地は「表間口十間、裏間口十五間、裏行南之方折廻シ五十間三尺、西之方三十五間、総坪数五百六十九坪」となっており、これも、第3大区7小区戸長秋元喜晴、内海利作、学区取締青木将之の3名連署で御下渡願書を提出している。
 当時学校が設立されていなかったが、将来をみこんで用地払下げの願書を提出したものに、「第二大区八小区芝新堀町九番地之内(五百坪)」「第二大区十小区三田功運町二十八番地(二百二十九坪)」「第二大区十二小区麻布宮村町七番地之内(四百九十七坪)」の3例がある。このうち、麻布宮村町の用地は、南山学校開設願に明記されており、三田功運町の地所は、右の関係文書にあるように御田学校新築用地に当てられている。設立伺には、「費用総計一ヶ年金三百四十七円九十九銭二厘」とあり、「此ノ内金百四十四円府庁ヨリ下渡余ハ民費」として、200円余は、地元からの寄附金が当てられている。
 明治9年に設立された桜田学校と南山学校の設立願には、「兼テ御下ケ渡シ之地所へ区内協議之上有志之輩集金ヲ以設立致度」とあり、「就テハ書籍並教員一名ハ官費ヲ以御下渡シ相成度」と同文になっている。
 桜田学校は、第二大区二小区戸長秋元政富、書記吉村幸勝、村川義郎、篠有鄰、青木善造、村上吉兵衛、学区取締松本正次郎、福島正成、柿内嘉雄、岩崎勝典の10名連記になっており、南山学校では、第二大区十二小区戸長箕輪光晁、書記内藤銕蔵、河野嘉平、村木義方、加藤忠助、近藤新、学区取締は、桜田学校と同じ松本、福島、柿内、岩崎の10名連記である。
次に明治11年に設立された飯倉(いいぐら)学校では、区内集金には「金捨三円之レハ区内聞小開割壱小間ニ付金弐銭充一千九百七拾間之合計金三拾九円ノ三分ノ一ナリ但鞆絵麻布両校并ニ本校ニ割ル」としてあり、学校維持のための資金を地区住民に求めている。また「一金二千二百円也 之レハ有志寄付金現在ノ集額ナリ」「一金三百六十一円二銭七厘也 之レハ区内一般有志者ヨリ醵金(キヨキン)スヘキ見込ニシテ現今募集中ナリ」と当時としては非常に潤沢な資金が目につく。更に伺提出人連書には、第二大区四小区総代人真田幸氏、同上六小区総代人徳川茂承、同上七小区総代人戸沢正実、右区長総代人松平頼英、島津忠亮と外9名の連記になっており、同上四・六・七小区戸長兼学区取締浦口善秀、同上戸長兼学区取締館興敬の名で提出されている。これは学区内に旧大名の上屋敷や下屋敷が多かったために、小区の総代人を依頼されたためと思われる。
 以上は、港区地域の学校設立の様子を通して学区取締の役割をみようとしたものであるが、「其土地ノ居氏名望アル者」として戸長兼任の者が当たっており、学校設立資金を求めるための苦労が察せられる。
 なお、『文部省年報』所収の「東京府年報」には、明治6年より毎年、学齢児数、就・不就学児数、公・私立学校への就学数が載せてある。また、第八大区四小区那珂郡堀口村の資料として、学区取締による「学齢人員取調書上」が作成されているが(倉沢剛著『小学校の歴史』1)、それには「就・不就ノ理由、児童トノ続柄、学齢児童名、生年月日」が記されている。おそらく前記港区地域の学区取締も、学齢児調査を行い東京府への報告をするとともに、私立学校の育成と、公私どちらかへの就学督励に努力したことであろう。
 
関連資料:【文書】教育行政 学校地払下
関連資料:【学校教育関連施設】