「教育令」下の学校の管理[注釈20]

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 明治13年3月、東京府は、「教育令」の「其町村人民ノ選挙タルヘシ」の条文を受けて、「学務委員選挙規則」を定めて実施した。選挙人被選挙人は、満20歳以上の男子で、区内に本籍住居を定め土地を有する者でなければならず、記名投票を区長が検閲して公告した。任期は3年である。
 選挙された学務委員は、芝区2名、麻布区2名、赤坂区1名であり、麹町区、神田区、京橋区の有給に対して、無給であったことから(明治14年「東京府年報」)、「学制」時の学区取締か学校世話掛として学校に対して理解ある人が選ばれたのではなかろうか。
 しかるに、同年12月の「教育令」改正に際して、学務委員は町村人民がその定員の2倍、若しくは3倍を薦挙(せんきょ)し、府知事がその中より選任することに改められ、更に翌14年6月被選挙人は満20歳以上の男子でその学区に土地又は建物を有して本籍に居住する者、選挙人はその学区内の区会議員で、定員の3倍を「薦挙」するように改められた[注釈21]。そして、任期は4年、2年毎に半数改選と規定されている(『芝区誌』)。
 「教育令」期における学務委員の具体的な活動の資料[注釈22]はまだみつかっていない。
 「教育令」期、教育行政に直接のかかわりを持ったのは、東京府学務課である。教育諸規程の改正、学齢児の就学督励、公私立学校の監督、府立学校の資産管理、教員・生徒の学力試験、教員の勤務と授業の熟否の視察、そして、学務委員の規則の制定とその任免が学務課の役割であった。
 明治16年には、次のようにその機構が拡大されている。
 
  第一部 諸規則ノ創定改正 学校幼稚園書籍館ノ設置廃止及府立町村立学校等ノ経費ニ関スル事項
  第二部 町村立学校幼稚園書籍館諸職員ノ任免黜陟(チュッチョク) 学務委員ノ任免進退 小学校教員免許状ノ授与 学校幼稚園書籍館ノ巡視
 第三部 学事統計
  第四部 本課ノ庶務
          (『文部省第一一年報』所収「東京府年報」)
 
 そして、各区役所に書記を1、2名、各学区(芝・麻布・赤坂区)に学務委員を2、3名配置して仕事に当たる仕組みに発展した。しかし、「学事監督ハ一年凡(オヨソ)二回学務課員ノ各公立小学校ヲ巡視シ又ハ各公私立学校ノ状況ニ応シテ臨時巡視」するのを例にしているが、事務が繁忙であり人員が僅少なので、視察が十分にはいっていないと「東京府年報」(明治16年)に報じている。
 この期の学校管理は、「学務官吏ノ順視監督ハ毎年二回定期試業ノ際公立小学校ニ臨視スルヲ例」とした巡視である。明治13年の改正「教育令」による「就学督責ノ規則ハ府知事県令之ヲ起草シテ文部卿ノ認可ヲ経ヘシ」を受けた同14年の「就学督責規則起草心得」に対しては、同16年になって「就学督責規則ハ本年七月一日ヨリ実施スト雖モ府下人口ノ衆多ナル寄寓転籍者亦尠カラス」と調査未整理の所があるとしている。
 明治18年の「教育令」再改正時にも「区ニ於テハ戸籍上ノ調査頗ル煩雑ナルヲ以テ就学督責上ノ不便実ニ甚シク殊ニ本年八月学務委員廃セラレタルヲ以テ一層其不便ヲ生シタルモノヽ如シ」とあり、就学児の増加を認めながらも「在来ノ校舎ヲ維持スルニ汲々トシテ増設ノ準備ヲ為スノ余力ナシ」と訴えている。「教育令」再改正により、8月府令によって学務委員は廃止され、その職務は区長に引継がれ、その役割を区長が果たすことになった。しかし、学務委員を行政上の官史として位置づけ、府学務課の機構を充実していたため「本年ハ学務委員ノ廃止ニ逢ヒ区役所戸長役場ニテハ多少事務ノ増加ヲ生シタルノ状況ナレトモ事務ノ延滞ヲ来ス程ノコトアラス」として、教育行政に対しての府の対応が確立していたことを示している(明治19年『東京府年報』)。
 その後、学務委員の復活をみたのは、明治23年の「小学校令」改正であり、「市制・町村制」に基づいて「国の教育事務」につき、市長、町村長を補助するものとして定められている。明治24年の学務委員の構成は、芝区は区会議員6名、公民3名と公立小学校長、麻布区は区会議員4名、公民4名と公立小学校長、赤坂区は、区会議員3名、公民3名と公立小学校長であった。これによって、地方教育行政の上に学務委員は重要な役割を果たすことになるのである。
 
関連資料:【文書】教育行政 芝区学務委員
関連資料:【文書】教育行政 麻布区学務委員
関連資料:【文書】教育行政 赤坂区学務委員
関連資料:【図表および統計資料】教育行政 芝 麻布 赤坂歴代区長