「教育令」改正に伴う政府の積極的な督励政策によって、「学制」後期から自由教育令といわれた「教育令」期にかけての教育の混乱も治まり、学齢児童の就学率も高まりつつあった。しかし、明治16、17年にかけて、全国的に教育情勢が悪化してきた。それは、財政の緊縮政策による深刻な不況と、連年の干害や水害などの災害に見舞われたことであった。
一方、自由民権運動の高まりは、地方における政府の支配基盤に強い動揺を与えていた。しかも、デフレーション政策に国民の協力を求めなくてはならない。政府は、明治17年(1884)5月「区町村会法」を全面的に改訂して、地方の自治選挙に対する規制を強めている。そして区町村費の徴収には怠納者処分法が適用されたので、教育費の怠納にもこの処分法が適用されることにして、区町村教育費の確保につとめた。しかし、経済不況による地方財政の窮乏は、教育費の大幅な節減を要求した。そのため文部省は、学務委員を廃しその給料を節減し、小学校の2部授業・夜間授業を認め、小学教場を設置するなどの措置を講じ、また小学校の維持は授業料を徴収してこれに当てる方針をたてた。
こうして、「教育令」の再改正と区町村費の節減は相互補完の形で企画され同時に公布されたのである。
一方、東京府の財政はどうであったのであろうか。
『東京百年史』によれば「府の経費総額自体も、一四年度には飛躍的に高まり、一三年度比で三倍近くに膨張した。一六年度以降はデフレ政策の影響もあってか、停滞傾向を維持している」とあり、その内容については府民公共の民生費である土木費、教育費などは、14年以降、漸増はしつつも停滞傾向が目だっており、とくに、「府経費総額に占める比重は、警察官の急増と対照的に急激な低下を示している」とあり、「自由民権運動の高まっている時、首都東京に政府が確立しようとしている特殊な警察行政の財政負担が、府民に負わされた役割であった」と結んでいる。
東京府の税収入は、地租付加税(土地にかけられた国税に対して5分の1の賦課)、営業税(国税が講ぜられた以外の会社、卸売・仲買・小売商の課税)、雑種税(魚市場・青物市場、演劇・興行、湯屋・床屋等の課税)と家屋税である。家屋税は、明治18年度には税収総額の5割に達し、同20年には7割をこえている。デフレ政策による府下の商売の不振に対して、商工業の保護育成のためには、営業・雑種の2税の負担を軽減しなくてはならないし、地租付加税は限度があるために、家屋税の収入を高める以外に方法がなかったのである。府の歳出増加の大半が、国の援助があったにしても前述の警察費の急激な増加にあったことは否めない。国費支出の地方費転嫁と府の経費膨張は、家屋を持つもの、特に中産階級に重税による苦しみが増加していったと思われる。しかも、その上に教育費が圧迫され続けていたのである。明治14年発行の『東京経済雑誌』には、次のように論じられている。
従来官庫ヨリ支出シタルモノヲ地方税ニ嫁セラレタルナレバ如何ニコレヲ削ラントスルモ削ル能ハサルナリ玆ニ於テ東京府会議員皆顰蹙(ヒンシュク)シテ曰ク俄カニ二倍ノ租税ヲ加ヘレハ其レ餓死(ガシ)ヲ免カレサラン乎ト……当年ノ租税ヲ徴収セラルル者皆ナ其巨額ナルニ驚駭(キョウガイ)シ不平ノ声各区ニ囂々(ゴウゴウ)タルヲ聞ケハ今年ノ終末ニ至リテ細民ノ難渋(ナンジュウ)スルコト真ニ思フヘキナリ
また、明治15年の「東京府年報」には、将来学事施設上に関して最も主要とすべきものとして「小学校教員其人ヲ得ル」ことと、「学令児童ヲ容ルヽニ足ルヘキ校舎ヲ増設スルコト」をあげ、現在の状況では学資金が乏しく、「民産ノ困苦未タ教育ノ隆盛ヲ図ルニ逞ナキ」ものがあって、校舎増設が実にむずかしいが、このままではよくないので、将来への計画がなくてはならないとして「今其困難ヲ救ヒ将来ノ降盛ヲ図ルニ於テハ補助ヲ国庫ニ仰キ教育法令ノ精神ヲ普及シ其効績ヲシテ民心ニ信用ヲ得セシメンコト切ニ希望スル所ナリ」と訴えている。明治18年にも、「公立小学校経済ニ関スル事」が、学事施設上の重大なるものの一つにあげられている。