明治18年(1885)の「内閣制度」創設に伴い、初代文部大臣に森有礼が就任した。
そして、「学事ヲ視察シテ文部大臣ニ具申スルコトヲ掌(ツカサド)ラシム」として「視学官」を任命した。この視学官には地方の学事を視察するだけでなく、担当の府県に対しては、それぞれの伺に対して指令する権限を与え地方の教育行政指導の徹底をはかった。
全国を5地方部に分け、それぞれ府県の学務課長と師範(しはん)学校長を召集し、地方部担当の視学官を中心にして「小学校令」の実施について打ち合わせを行っている。
東京府は、これより先明治18年の「教育令」再改正をうけて、学務課に学事改正取調委員を置き、郡部6郡の小学校を小学教場にきり変えるように企画していた。しかし、すでに明治19年度の区町村予算ができあがっていたので、これは1年見送ることになり、明治19年4月「小学校令」が公布されるに伴って、さきの学事改正取調委員は、「小学校令」に基づく小学校の組織改正に切り変え、同年6月に東京府の方針を起案した。
府は郡区長に達して意見の回答を求め、それを参酌して小学校の設置区域及び位置を定めているが、府学務課は、実際の景況にてらし将来永遠の目的をもって企画したと述べている。
この時の回答には、市部15区の多くは尋常(じんじょう)高等の併置を希望し、郡部6郡では大部分を尋常科とし、高等科はごく一部にかぎるのが相応であるとしていた。
この時赤坂区長は、尋常科終わりの1年の温習(おんしゅう)科は倦怠(けんたい)の念を生ずると次のように回答している
廉書第三項尋常科五年ノ終リ一年ハ温習補修ニ充ツルノ年限………此一段実際或ハ倦怠之念ヲ生スル恐レモ有之候間冊除相成候様致度
また、荏原(えばら)郡長は、品川、城南の両校に高等科、その他は尋常科でよいと回答している。東京府はこれら意見を酌量して、明治19年11月に市部15区の小学校組織を指定、芝区の、鞆絵(ともえ)、御田(みた)、南海、桜田、桜田女子、桜川、芝、麻布区の、麻布、南山、飯倉(いいぐら)、赤坂区の、赤坂、青山の各小学校を尋常科・高等科の併置校とした。ついで、12月に、荏原郡の白金小学校を尋常小学校に指定している。
東京府の学務課は、郡区長の意見を反映させ、また小学簡易科は設置しない方針をとるなど、将来に向けて慎重を期したことがうかがえる。
関連資料:【学校教育関連施設】