■始業及び終業

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 始終業に関する記事を学校日誌から追ってみる。
 
  明治二十一年一月九日
  当日各生徒ニ新年ノ詞ヲ述ベ ツイデ各教員演説シ生徒解散セリ(麻布小)
   本日ヨリ始業ス(白金小)
  明治二十一年九月二十四日
  森文部大臣来ル二十五日本府尋常師範学校及尋常中学校巡視之序学事上ノ御演説モ有筈ニ付同日必出頭スヘシ 戸長役場ヨリ通達アリ(白金小)
  本日授業後教員一同ヲ会メ森大臣説示ノ要項ヲ談ス 気力ト勤働トヲ養成スル一法トシテ校中一ノ規約ヲ立テ教員生徒等シク之ニ服務スルヲ議決ス(麻布小)
  本日閉校式ヲ挙ケ了テ高年生ヲシテ教師ト共ニ教場内外ノ拭掃ヲナス
   勤働ニ服スル習慣ヲ養ハンガ為ナリ(麻布小)
  明治二十一年九月二十五日
  本日府庁議事堂ニ於テ文部大臣演説アリ 木村校長列席ス(麻布小)
  本日東京府庁ニ出頭シテ文部大臣学事上ノ御演説ヲ拝聴セリ(白金小)
 
 9月25日の文相演説の内容は定かでないが、彼の教育論と「小学校令」の趣旨を述べたであろうことは、白金小学校の記事「学事上ノ御演説」で推察できる。
 彼は、文相就任の直前に、初等教育について「各人自己ノ福利ヲ享ルニ足ルヘキ訓練」と、「生徒ノ気質ヲ鍛練」することが、従来の儒学系統の空論や語記に堕した知育偏重の教育から抜け出す極め手であるとして、「我帝国ニ必要ナル善良ノ臣民ハ実用ニ立チ生産ニ労働シテ富源ヲ開発スルモノ」であり、このような人物養成の場は、教室内の教育とともに教室外の教育にも「俟(マ)タナケレバナラナイ」と論じている。
 麻布・白金両小学校の記事から、東京府は15区とともに郡部の小学校長まで出張命令を出し、森文相の講演を拝聴させ、新しい教育制度とそのねらいに対応させるように努めたものと思われる。
 麻布小学校では、職員会議の議決が大掃除という形をとって、初めて記述されている。勤労精神の養成を実践化するという、文相演説がいち早く現場にとり入れられたことは、当時の本区の教育活動が時代の動向に敏感に反応していた好事例といって良いであろう。
 そのほかには、夏季休業日が明治22年は、20日(麻布小)と16日(白金小)、明治23年は、15日(麻布小)と21日(白金小)となっており、麻布区と芝区とでの日数が異なっている。そして、休業日の決定が学務委員や校長会で決定される経緯が記録されるのは、明治24年以降になっている。また、授業時間の記載、短縮授業の記事など、学校管理の事がくわしく載るようになるのは明治25年ごろからになっている。明治23年までは、近代教育確立に向けて対応が急がれていた。
 
   小学校ノ学科及其程度(明治一九年五月文部省令 抄・後補)
  第二条 尋常小学校ノ学科ハ修身・読書・作文・習字・算術・体操トス 土地ノ事情ニ因テハ図画・唱歌ノ一科若クハ二科ヲ加フルコトヲ得
  第三条 高等小学校ノ学科ハ修身・読書・作文・習字・算術・地理・歴史・理科・図画・唱歌・体操・裁縫女児トス 土地ノ情況ニ因テハ英語・農業・手工・商業ノ一科若クハ二科ヲ加フルコトヲ得 唱歌ハ之ヲ欠クモ妨ケナシ
  第四条 土地ノ清況ニ因テハ小学校ニ温習科ヲ設ケ六箇月以上十二箇月以内児童ヲシテ既修ノ学科ヲ温習シ且之ヲ補修セシムルコトヲ得(略)
  第五条 尋常小学校ニ於テハ児童ノ数八十人以下高等小学校ニ於テハ六十人以下ハ教員一人ヲ以テ之ヲ教授スルコトヲ得
  第六条 小学校ニ於テ教員二人ヲ置クトキハ二学級ヲ設クヘシ児童ノ数百二十人ヲ超フルトキハ三学級トナスヘシ
    但教員三人以上ヲ置クトキハ本文ニ準シテ学級ヲ設クヘシ
  第七条 小学校ハ一箇年内凡八週間及日曜日・大祭日・祝日ハ休業スヘシ 但土曜日ハ午後休業スルコトヲ得
  第八条 小学校ノ授業時間ハ毎日凡五時トス
  第九条 各学科ノ毎週時間凡左ノ如シ
             尋常小学科     高等小学科
    修身       一時三十分 一時三十分 地理・歴史  四時
    読書・作文・習字 十四時   十時    理科     二時
    算術       六時    六時    図画     二時
    唱歌・体操    六時    五時    裁縫     二時乃至六時