東京府の対応

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 庶民の学校である寺子屋・私塾は、明治5年(1872)の「学制」公布以前開業のものが東京府には1207も開かれていたことが、東京都公文書館の資料によって明らかにされている。
 『維新前東京市私立小学校教育法及維持取調書』(明治25年)によれば、当時の生徒就学の状況を次のように記している。
 
  昔時生徒ノ就学スルヤ統計表等ノ好材料ナキヲ以テ其多寡ヲ知ルニ由ナシ、然レトモ人或ハ言ク、今ト大差アルナシ、是レ大凡親トシテ子ヲ教育セシムルハ親ノ本分ナリトハ、人々深ク之ヲ脳裡(ノウリ)ニ印セシハ古今一轍(テツ)ニシテ偶(タマ)々此道ヲ怠レハ往々社会ニ擯斥(ヒンセキ)セラレ、嗤笑(シショウ)セラルニ至リシト且甚ダ就学シ易キ途ノ開ケアリシトヲ以テ当路者(其実昔時ハ之ナキモ仮リニ云フ)ノ督促ニ逢ハザルモ、能ク其子ヲシテ就学セシメタリ是ヲ以テ之ヲ推スニ、当時就学児童数ハ不就学児童数ヨリハ遙カニ超過シタルモノヽ如シト
 
 港区地域でも、当時の町屋密集地に多くの寺子屋・私塾が開設されていた。また、明治初年よりの 区(郷(ごう))学校(御田(みた)小、桜川小、赤坂小学校の前身)の設立や、明治6年改めて出した幼童学所の設置願などから、地域住民の努力がよくうかがえる。
 [図1]は、『東京府年報』に報じられた明治初期の学齢児童数・就学児童数と、その就学率をグラフ化したものである[注釈1]。「学制」期の行政区画は、「大区小区制」であり港区地域としての就学情況の資料は不明であるが、ほぼこれと同じ傾向を示したのではあるまいか。
 東京府は、「学制」期の就学率を高めるため、私立小学の保護育成政策をとり、明治10年にかけて、開学・廃止がありながらも、総数としてはあまり変わらず、公立小学は着々と増加を続けている。東京府全体と港区地域の公・私立小学校数をみると、[図2]のようになっていることからもうかがい知ることができよう。東京府は、明治6年2月に、次のような「小学起立之方法市在区々へ触」を出している。

[図1] 東京府における明治初年の就学状態(『東京府年報』)

 

[図2] 東京府と港区地域の公・私立小学校数

 
    坤十八号
  別紙太政官御布告之御旨趣ニ基キ此度小学起立之方法相定候間条則ニ照準シ府下毎区ニ一小学ヲ建幼童之子弟ハ男女之別ナク一般ニ従学セシメ候様致シ度事ニ候尤本文被仰出之通学問ハ其身ノ財本ヲ貯へ産ヲ治メ生ヲ遂ルノ基タルヲ以テ学事ニ関スル費用ハ其区毎之民費タルヘキハ勿論ニ候得共開学之始ニ付当分学区御扶助之為メ人頭九厘ノ割ヲ以官金下賜候間区々申合便宜ニ従ヒ学舎ヲ取建子弟ヲシテ必ス学ニ就カシメ候様可致事但毎区一校ツヽ取建候儀一時ニハ難行届学校之趣モ了解致兼可申ニ付差向扶助金ヲ本トシ旧六小学取交各大区二三校以上取設候条男女トモ六歳以上最寄小学へ従学為致可申尤当分私学家塾へ通学致候トモ可為勝手事
  右之通市在区々無洩可触示者也
  明治六年二月
            東京府知事 大久保一翁
 
 東京府は、「子弟ヲシテ必ズ学ニ就カシメ」るようにするためには、公立の小学校設立は「一時ニハ難行」だが努力するので、「当分私塾家塾へ通学致候トモ可為勝手」との方針によって、とりあえず学齢児童の就学確保に努めたのである。

[図3] 港区地域の公・私立小学児童数とその男女比

 
 港区地域の就学児の実状は、[図3]のように、公立小学校の占める割合が、明治7年では約6分の1、明治10年でも約3分の1に過ぎず、このことは、明治9年の「東京府年報」による「府下八百ノ私学ハ実ニ該府教育ノ股肱(ココウ)」であり、明治11年の学監モルレーの「府下公学巡視申報」における、「私学ノ府下人民初学ノ為ニ欠ク可カラサル所以」という記録を裏付けている。
 明治8年には、女子の就学向上を図るため「上等女子小学規則」を定め、女子のための裁縫術や小児養育談を教科内容に入れており、港区地域では、公立小学桜川学校を桜川女学校にし、明治10年には桜田女子小学を設立している。
 港区地域における男女の就学状態は、私立小学においてはほぼ同数、公立小学で女子がやや劣るが増加しており、江戸時代以来の教育観による、男女を問わず日常生活に必要な教育の重要性の認識の現われであるといえよう。
 明治16年の『文部省第一一年報』所収の「京都府年報」によれば「女児就学ノ数ハ男児ニ比スルニ僅ニ五分ノ三ニシテ普通教育ノ女児ニ及ハサルハ従来ノ通患ナリ」と、「教育令」期に至っても女子の就学については問題を残しており、また沖縄県のように、「女子教育ハ之ヲ措キテ顧ミサル所ニシテ貴賤ノ別ナク婦女ノ字ヲ知ルモノナシ是レ該地ノ一大弊風タレハ漸次之ヲ改良スルハ教育上緊要ノ事項ナリ」(明治13年)というような、極端な事象は港区地域にはみられない。そのためか、女児に対する就学奨励の記録は見当たらない。
 [図4]は、東京府における上・下等小学の卒業試験に及第した卒業生の数である。明治9年の赤坂小学校の児童数は116名、そのうち上等小学在学者は14名、桜川女学校では、211名中わずか5名に過ぎない。公立の小学校においてさえこの状態であり、私立小学校は、ほとんど下等小学か変則小学(正規の教則を完備しない小学)であった。
 

[図4] 東京府の上・下等小学卒業生数(『東京府年報』)

 東京府は、この実情をふまえてか、明治10年に「目下農家ニ緊切ナル」として、上下各8級(8カ年)を、上下各5級(5カ年)にする「村落小学教則」(港区地域には関係しなかった)を設け、「日常普通ノ事ニ習熟セシムル」とし、翌明治11年3月には、「小学簡易科教則」と、「男・女尋常(じんじょう)科教則」を発布し、簡易科は4カ年、尋常科は6カ年という、今までの上下8年間の就学年数を短くする措置を講じている。
 「学制」期の就学に関することは、学区取締がこれを掌(つかさど)っていた。「学齢ヲ調査シ就学ヲ督励シ其就、不就学ノ数ヲ毎定期試験ノ后別冊ニ製シ開申スル事」との事務を実施していたことは、『文部省年報』所収の「東京府年報」に学齢児数と就・不就学児数が載せられていることによって知られるが、実際の活動は資料が見当たらず不明である。しかし、[図1]にあるように、明治初期の就学率が50パーセントを超えていることは、東京府における学区取締の役割が大きく働いていたといえるであろう。
 
 府下工商ノ子弟未タ下等小学科ヲ卒ヘサルモ年齢十歳以上ニ至レハ彼ノ年季奉公ナルモノニ出スヲ以テ中道ニシテ退学スルモノ多シト云フ
 
 これは、明治8年の「東京府年報」が報じたものであるが、「学制」期における児童の就学の実際は、前述の東京府と港区地域の就学の様子から、この域を出なかったもののようである。
 
関連資料:【学校教育関連施設】