府民の生活の様子

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 「学制」期における就学の様子は、当時の暮らしの実態からみていく必要があろう。
 ここに1枚の地図が復元されている[図5]。ここは、現在国鉄の貨物専用駅、汐留駅構内になっているが、鉄道開通当時、ハイカラ東京の象徴であった新橋ステーションのあった所である。
 

[図5] 汐留新町・三角屋敷平面図(小木新造著『東亰時代』より作成)

 
 明治5年3月、東京・横浜間の鉄道が完成した時、新橋鉄道館(当時の新橋駅)建築のために立ち退かされた町家のある、汐留新町と三角屋敷と呼ばれた、約960坪余りの土地であった。この地図は、東京都公文書館にのこる立ち退きに際しての一時金支給に対する上書に基づいて作られ、小木新造著『東亰(とうけい)時代』に掲載されたものであるが、これによると、明治4年から翌年にかけて立ち退いた、「炭薪商」2、「砂利・玄米・春米・升酒・糖・粉名屋」を営む商人各1の8軒、料理・「鮨(すし)・鰻(うなぎ)」の食べ物の店が3軒、大工が2、「左官・仏師・桶(おけ)職人」の各1と、「駄賃馬・駕(かご)・車力・髪結(かみゆい)・日雇・賃仕事人・車屋」など14軒、湯屋、町の世話役中年寄の各1軒、この土地柄である船乗稼ぎ人4軒と、船宿11軒の計42軒が記録されている。「大工や桶職人」そして「髪結い」が5坪から6坪(畳12畳分)程度の家であり、日雇は2坪の独立家屋、「鮓(すし)の行商人」や賃仕事の「後家」は、1・75坪の家に住んでいたという。
 この船宿や船乗稼ぎを別にして、このような町家の状態は、愛宕地域、新橋から金杉にかけての街道筋、飯倉地域の家屋密集地では、道路筋の商家を除いて、表通りから裏店の関係を示しているものであり、当時の港区地域の実情であったと思われる。明治12年の資料によると、裏長屋の居住空間は、門口2間奥行3間(6坪)程度のものが多く、俗に9尺2間というわずか3坪(畳6畳分)の長屋も存在していた。当時港区地域の家屋は「瓦葺(かわらぶき)」39パーセントに対して、「杮葺(こけらぶき)」(俗にトントン葺といわれる杉の薄板を打ちつけたバラック建築の屋根)の家が54パーセントを占めているという状態であった(『東京百年史』)。
 明治の初めの資料によると、第二大区(芝・麻布地域)の人員級数は、6万8373名であり、その職業の比率は、[図6]のようであった。他の5パーセントのうち、「農業」が2パーセント、「官員・羅卒(らそつ)」が1パーセントにしか過ぎない。大部分が雑業・商・工であり、「雇人」が6パーセントを占めている。
 明治11年の調べによる1日の手間賃は、「大工・佐官」が30銭、弁当代10銭を合わせて日当40銭である。「桶職・傘職・仕立職」は28銭5厘、「日雇」は弁当自弁で男20銭、女15銭となっている。
 

[図6] 第二大区(芝・麻布地域)の職業比・明治5年(『東京百年史』)

 
 大工が1カ月のうち25日働くとして月収10円である。5人家族が米を1人平均4合を食したとすると、月6斗になりこれが約7円となる。仕事着である「股引(ももひき)・腹掛」が80銭から1円20銭、湯屋が2銭で、5人が20日入浴するとして2円必要である。当時は借家住いが多く、家賃も必要であった。芝区源助町・露月町の間口3間、奥行4間(12坪)の2階建の家賃が4円から7円くらい、赤坂区伝馬町通りで同じ造りが2円50銭から4円くらいであった。また、明治11年の芝金杉外7カ町では、漁夫数40名、年収益が2559円であって、これを1カ月の収入に直すと、1人当たり約5円30銭である。恐らく小商いの商人の収入も、これと大差ないものであったと思われる(『東京百年史』『新修港区史』)。
 右のような生活の実情からみて、当時の公立小学校の授業料50銭というのは、収入と生活費の上からは、大きな出費といわざるを得ない。まして職人以下の収入である雑業層は、手狭な住宅になり、生活も苦しく、子供には「早く手に職を」と考えざるを得なかったことであろう。