就学に対する法の変遷

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 「学制」は、わが国に国民教育制度を確立することにおいて、大きなはたらきをしていた。しかし、当時の国力や民情の上から、多くの問題をかかえていたことも事実である。「事情ニヨリ一概ニ行ハレサル時ハ斟酌(シンシャク)スルモ防ケナシ」としたが、全国一律に8カ年の就学は無理であった。前掲[図1]の東京府における明治初年の就学状態図をみても、その就学率は50パーセントをやっと超えたところであり、全国的には40パーセント程度に過ぎなかった。そして、中途退学者も多く、ほとんどが下等小学4年間の就学に終っていた。
 東京府は、「教育令」施行の前年、明治11年(1878)に男女尋常(じんじょう)科6カ年、簡易科4カ年の教則を作り、父母の選択にまかせる方策をとっていた。
 明治12年9月公布の「教育令」では、学齢を「児童六年ヨリ一四年ニ至ル八箇年」と、「学制」と同様におさえながらも、就学については学齢期間中16カ月以上であればよく、また学校に入学しなくても、別途に普通教育を受ける方法をもてば就学とみなし、公立小学は8カ年としてあるが、4カ年までの短縮を認め、その上毎年4カ月以上の授業でよいとして、「学制」と比べ大きく後退して実情に歩み寄る方向を示した。
 「教育令」は、大区小区の行政区から、町の形成に合わせた芝・麻布・赤坂など15区の成立とともに実施された。これは、地方の実情に合わせ、町村住民の自由に任せる部分のある、寛大な教育政策であったといえる。
 港区地域では、その対応にとまどいをみせる程度であったが(第2節第2項(1)126ページの赤坂小の事例参照)、全国的には教育の後退をみせ、政府部内の批判もあって、政府の督励や強制が教育普及に欠かせないとの方針により、明治13年に「教育令」を改正し、小学校教育の振興を図った。
 これは、府知事県令の権限強化による教育行政の徹底に努めるものであった。学校設置では、府知事県令の指示に従って「其学齢児童ヲ教育スルニ足ルヘキ」小学校設置を、町村に規定した。また、就学義務についても、小学校の年限を「三箇年以上八箇年以下」として、最低3年に短縮したが、「課程ヲ卒ラサル間已ムヲ得サル事故アルニアラサレハ」と、3年間の就学を明確に義務づけている。年間の授業日も32週以上、3時間以上6時間以下(昭和61年現在は35週として教育課程を修業する)に改め、ほぼ現在のように常時授業を行うものとされた。
 明治14年には、政府は「就学督責規則起草心得」を制定し、府県で定める「就学督責規則」の基準を明示している。この基準は、教師が児童の日々出欠を点検して学務委員に報告し、学務委員は父母に欠席の理由を質し、いわれのない時は「篤ト将来ヲ戒諭」したり、その筋の説諭を願うなどの、当時としては厳しい内容のものであった。
 しかし、当時の経済的不況と国庫補助金の廃止は、児童の就学率に反映し、明治18年に「教育令」は再び改正されなければならなかった。これには、小学校の外に従来の家塾のような小学教場を認め、土地の状況に応じて、午前か午後の半日や、夜間の授業で2時間以上を行えばよいとする簡易な教育をも認めるものであった。そのうえ3年間の就学後の「相当ノ理由アルニアラサレハ毎年就学セシメザルヘカラス」の項を削除している。
 これらの措置は、あくまでも当時の経済的不況による教育費の節減のためであり、このことは学校の維持が町村費から授業料徴収増に移っていく必然の過程でもあった。しかし、これが施行された期間は短く、明治19年には「小学校令」が制定され、教育行政に新たな時代を迎えるようになった。
 「小学校令」では、高等科4年、尋常科4年のうち、「父母後見人等ハ其学齢児ヲシテ普通教育ヲ得シムルノ義務アルモノ」として、尋常科の4年間、就学しなければならない義務の観念を打ち出している。
 この時期は、国内の経済情勢と児童の就学の様子から、いかにして就学率を高めていくかの揺らん期であったといえる。初めの「小学校令」と、明治23年の次の「小学校令」によって、児童の就学が「義務アルモノ」として定着していくのである。