府・区の就学状況

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 東京府は、明治11年に今までの8年制を、男・女尋常科の6年制と、4年制の簡易科という3種類の教則を同一校内で実施することになり、明治14年には「就学督責規則」を定めるようになったことは前に述べた。
 明治15年の『文部省第九年報』所収の「東京府年報」は、明治14年の実状を次のように報じている。
 
    学齢児童就学
  就学督責規則ハ本年ニ於テハ文部省ノ裁可ヲ経ル迄ニテ未タ之ヲ実施セス巡回授業ノ方法ハ十三年六月廃止以来設置セス貧困児童就学ノ方法ハ旧ニ依リ或ハ無月謝或ハ筆墨紙ヲ給シ尋常普通ノ小学校ニ入ラシムルノミニ止メ別ニ一定ノ規則及ヒ校舎ヲ置カス家庭教育ハ府民日常概ネ家事繁忙ナルヲ以テ之カ教育ヲ為ス者殆ト稀ナリ学齢就学ニ係ル一般ノ状況ハ就学督責上ニ付従来別ニ規定ヲ設ケスト雖トモ常ニ奨励ヲ怠ラサルト民間稍教育ノ忽(オロソカ)ニスヘカラサルノ理ヲ覚知スル者アルトニ因リ就学ノ数日ニ多キヲ加フルニ至レリ然レトモ子弟漸ク十才前後ニ達スルニ及ンテハ其学業如何ニ拘ハラス生業ニ就カシムルニ汲々トシテ或ハ商売ノ丁稚トナシ或ハ工匠ノ徒弟トナス者極メテ多シ故ニ小学全科ヲ卒フル者甚タ稀ナリ是概ネ貧富ニ根スト雖トモ亦旧慣ノ然ラシムル所居多ナリト謂ハサルヲ得ス
    小学校
  (前略)前年ニ比スルニ公立ハ六ヲ増シ私立ハ三十九ヲ減ス其生徒ハ公立ニ二百四十二人ヲ増シ私立ニ八千二百八十三人ヲ減セリ如斯生徒ニ非常ノ減員ヲ生スル所以ハ蓋(ケダ)シ前年ニ於テ小学ト称ヘシモノ本年ニ至リテ各種学校ニ変換スルノ多キニ因ルモノカ小学校則ハ教育令改正爾(ジ)来該令ノ主旨ニ準拠シ編成中ナルヲ以テ猶旧ニ依リ各校適宜ノ編成ニ係ルト雖トモ公立小学ハ曩(サ)キニ府庁定ムル所ノ尋常簡易ノ両教則ニ随テ履行セリ私立小学モ亦大概之ニ同シ熟々(ツラツラ)現時ノ景況ヲ通観スルニ普通教育ノ進歩大ニ昔日ト面目ヲ異ニスルカ如シ其尋常簡易二科ノ教則ヲ公立小学ニ実施スルニ該リ中人以下ノ子女ニシ苟(イヤシク)モ就学スルモノハ簡易科教則ヲ学ハント欲スルモノ多カリシカ爾来人文ノ進歩スルニ従ヒ普通教育ノ貴重ニシテ忽諸(コツショ)スヘカラサルヲ覚知スル者次第ニ増加シ現今ニ至リテハ区部ノ小学ニ於テ簡易科教則ヲ学ハント欲スルモノ日月ニ減少シ該則ヲ施スモノ僅々一二校ニ過キス又郡村小学ニ至リテハ土地ノ実況ニヨリ総テ簡易科教則ヲ施行セシカ現今ニ及ヒテハ既ニ該科ヲ卒業シ猶(ナオ)尋常科教則ヲ学修セント欲スルモノ増々多キヲ加フルノ状況ニ赴ケリ(後略)
 
 東京府は、改正教育令に基づき、最低の3カ年の確保と、8年間の就学に対応できるように、初等科3年・中等科3年・高等科2年の小学教則を明治15年に制定し、5月より実施した。
 [図9]は、東京府全体の各科・各級に在籍していた児童数である。明治18年においてもこの状態であり、初等科においての卒業者数は、入学者数の半数に過ぎない[図10]。
 前掲の[図1]東京府の就学状態図からみても、明治13年以降は、就学する児童は増加しているが、就学率はほとんど変わらず、40パーセントを保っている。明治の前期の学校教育では、教育以前の、いかにして就学率を高めるかが、どんなに大きな課題であったかがうかがわれる。
 明治15年の「東京府年報」には、「就学督責規則ハ百事改正ノ際実施上錯雑ノ恐レアルヲ以テ本年ハ挙行ヲ停ム」としてあり、同16年では、「就学督責規則ハ本年七月一日ヨリ実施スト雖モ府下人口ノ衆多ナル寄寓転籍者亦尠カラス従テ学齢児童調査上煩雑ヲ生シ未タ整理セサル所ナシトセス」とあり、人口の流動のはげしさを訴え、その困難さを強調している。そして、同17年では就学督責は重要ではあるがむずかしい面があるとして、特に強調しなくても「民心向学ノ厚キ完全ナル教育ヲ得ント欲スルモノ日ニ月ニ増加スルノ景況ナリ」と、初等教育の義務の観念がだんだんに府民に浸透していく様子を示している。

[図9] 東京府公立小学校の各科・各級の在籍数(『東京府年報』明治18年)

 

[図10] 東京府の小学校各科卒業生数(『東京府年報』)

 学制期では、上等小学に進む者は数えるほどしかいなく、下等小学4年間の就学であり、その上中途退学者が非常に多かったが、「教育令」期に入って就学率こそ変わらないが、中等科への進学が増加しているのは事実であり、[図10]のようにその卒業者も着実に伸びてきている。
 しかし、南山小学校の記録では、毎月のように在学者が変動しており([図7]参照)、この傾向は明治18年の記録まで続けられている。18年の学校沿革誌には、次のように記載されている。
 
  七月十五日中途退学員数ヲ届出ツ昨年十七年中ノ分
  初等科四十四名 男二十一人 女二十三人
  中等科八十四名 男五十八人 女二十六人
 
 当時麻布区では、初中等科を南山・飯倉(いいぐら)小学校に、高等科は麻布小学校に置き、中等科卒業生は麻布小学校に進学するしくみになっていた。
 当時の南山小学校の在籍者は、男166人、女106人の計272人である。特に男子の中等科退学者が目につくが、「学業如何ニ拘ハラス生業ニ就カシムルニ汲々トシ」ており、早く丁稚(でっち)・徒弟(とてい)にという旧来の習慣の現われは、明治前期中まだまだ残っていた。南山小学校の資料のみではあるが、芝、麻布、赤坂区のそれぞれの就学の実情は、各3区の就学率からみても似たものだったと思われる。
 港区地域の私立小学校在籍者は、明治17年でも、公立小学校と半々の数を占めていたが、ほとんどが初・中等の小学校であり、内容的に公立以上には出なかったといってよい。さきに述べた「学制」期の港区地域の「住民の生活の様子」からも察せられるように、経済的に苦しい人々が多数を占めていたのである。