「学制」発足後3年の明治9年(1876)、当時14歳までとされていた小学校に在学していた14歳以上の就学生徒は、「男子五千六百八十七名、女子五千四百八十九名、計一万千百七十六名」と、『文部省第四年報』所収の「東京府年報」は報じている。
これらの実態をふまえたのであろう、東京府は同年に「公立夜学開設概則」[注釈2]を定めて府下に達した。
公立夜学開設概則
第一条 夜学ハ昼間職業繁劇習学ニ暇ナキ者及ヒ昼間習学ノ者ト雖モ篤志ニ出テテ尚習学セント欲スル者ヲ教授スルモノトス但女子及ヒ十歳以下ノ男児ハ入学ヲ許サス
第二条 夜学ヲ開設セント欲スル区内ハ公立小学校ヲ仮用シ学区取締戸長総代連印ノ書面ヲ以テ伺出ツヘシ但教師ハ該校教員ヲ用ルモ別ニ聘(ヘイ)スルモ妨ケナシトス尤師範校ノ講習ヲ経サルモノハ教員トナスヲ許サス
第三条 日用ノ書算近易ノ科業ヲ教授シ或ハ公布新聞紙等ヲ講述ス可シ
第四条 教則ハ土地ノ情態ニ因リ自ラ異同ヲ生スルヲ以テ予メ之ヲ設ケス故ニ学区取締教員ト商議ノ上之ヲ定メ経伺ノ上施行ス可シ
第五条 教員ハ生徒ノ出入時限表ヲ制シ生徒ノ父母又ハ家長ヲシテ其家ヲ出ルノ時間ヲ記載証印セシメ退校ノ節ハ教員之ニ時間ヲ記シ証印ヲ捺シ生徒ヲシテ父母及家長ニ出サシムヘシ
第六条 教員給料ハ生徒ノ多寡(カ)ニ応シ別ニ給与スヘシ薪炭油等雑費ハ授業料ヲ以テ之ニ充テ猶(ナオ)不足アレハ該校費ヲ以テ之ヲ補フヘシ但校費ヲ以テ不足ヲ補フトキハ其都度経伺ノ上支消スヘシ
中途退学者も多いなかで、就学児のうちの過年児が、東京府内に約1万人もいたということは、職人でも商人でも、職業を営み生活をする上での読み書きと計算能力が、必要欠くべからざるものであるとの認識が、定着してきていたことを裏付けている。私立小学校での年齢制限はよりゆるやかであり、就学の場がもたれていたことは、日常生活に必要な教育を授けることが、社会的な要望となっていたものと思われる。
東京府は、この「概則」をもとにして文部省に伺を立て、翌10年に5校の「商業夜学校」を公立小学校内に設立した。
府下小学校ニ於テ夜間商業学教授為致度伺今般府下公立常盤小学校外左ノ四校ヲ仮用シ夜間商業科ノ大略教授為致度就テハ校則教則別紙之通相定可然哉此段相伺候也
明治十年三月廿一日
東京府知事
楠木正隆
文部大輔
田中不二磨殿
追テ本文夜間教員ハ公立小学校教員ノ内適任ノ者相用其他費用ノ儀ハ府庁学資金ノ内ヨリ支給可致筈ニ候此段副申候也
第一中学区
第一大区五小区本町二丁目 常盤小学校
同 十五小区坂本町 坂本小学校
同 十二小区馬喰町三丁目 千代田小学校
第二中学区(芝・麻布地区)
第二大区二小区新幸町 桜田小学校[注釈3]
第五中学区
第五大区五小区浅草寿町 戸田小学校
(学校の校則・教則 略)
桜田小学校において、どのように実践されたかの資料はまだ見当たらないが、「東京府年報」によれば、商業を営業しようとする者で、「昼間習業ニ暇ナキ者及昼間習業ノ者ト雖(イエド)モ猶習学セント欲スル者」に、商業学科の端緒を教授する所として、童子と大人の2科が設置されている。
また教師は、桜田女学校六等淮訓導(くんどう)会田幸高が兼務しているが([図11]の辞令)、童子・大人の各科の人数や教授組織等は明らかではない。校則と教則によると、商業を営もうとする者で、昼間学習に暇のない者に、商業学科の大略を教授し、毎夜7時から10時迄の3時間が課業時間と定められている。授業料は「当分納ムルニ及ハス」としてあり、書籍類は自弁としながらも、貧困等で購入し難い者には貸与する道も講じていた。しかし、女子の入学は許されていない。
[図11] 商業夜学校教員任命伺(東京都公文書館所蔵)
童子科は10歳から14歳迄、大人科は15歳以上の者を入学させ、前後期各6カ月の1年間が習業期間であった。そして、童子科を卒業して大人科に進むようになっていたが、「但学力ノ優劣ニ依リテハ」として、2科のどちらかに編入された。
教授方法としては「読物ヲ用サル書籍ハ生徒ヲシテ聴録ノ法ニ因リ謄写」させ、そして「熟語ノ意味ヲ委(クワシ)ク説明」し、其の要所では 「事跡ヲ挙ケ口授」する授業であった。また、商家の最も必要とする算術や帳合の方法は、「特ニ深ク練熟セシムルヲ要ス」とこの学校の特質を述べている。
恐らく、これによって実際に指導されたのであろう。15区6郡の成立とともに、商業夜学校を廃止し、今度は府立の「庶民夜学校」として、15区に各1校ずつの夜学校設立へと発展をみたのである。