明治十年商業夜学校ヲ六所ニ置キ謝金ヲ要セスシテ商工学科中日用卑近ノ業ヲ授ケシム爾(ジ)後来学スル者日ニ増シ月ニ加ハリ中ニ就テ僕僮厮養(ボクドウシヨウ)ノ如キ貧家子弟ノ如キ昼間習学スヘキ暇ナクシテ未タ眼一丁字ヲ解シ得サル者モ亦能ク文ヲ綴リ書ヲ読ムニ至リ其実益ヲ見ル最モ速ナルヲ信セリ故ニ之ヲ普(アマネ)ク府下十五区ニ及ホシ一区ニ一校ヲ設ケ其名称ヲ庶民夜学校ト改ム
明治12年4月、東京府学務課(本章以下、学務課)は、次の伺を府知事に提出し、それと同時に各区に対して夜学校設立への打診と回答を求めた。
[図12] 庶民夜学校開設受書(東京都公文書館所蔵)
庶民夜学校之義十二年度内ニ於テ一校増設都合六校と可致見積ニ有之候処更ニ十校増設都合十五校とし別紙位置取調書之通リ一区ニ一校を置キ其経費ハ地方税ヲ以テ之ニ充テ不足分ハ学資蓄積金ヨリ支弁致シ候様取計ライ可然哉予算書相添此段相伺候也
庶民夜学校ヲ建設スヘキ見込之地(略)
庶民夜学校十五校分十二年度経費予算(内訳略)
合計金四千五百四十四円
内
金三千四百四十九円七十一銭八厘 地方税ヨリ支弁
差引
金千九十四円二十八銭二厘 学費蓄積金ヨリ可支弁分
右之通リ有之候也
十二年四月二十二日
芝 桜川女学校 教員三人 六円一人 四円一人 生徒九十人
五円一人
麻布 飯倉学校 同 二人 六円一人 生徒六十人
四円一人
赤坂 赤坂学校 同 二人 六円一人 生徒六十人
四円一人
(ほか一二区略)
これに対して、芝、麻布、赤坂の各区は、次のように承諾の回答を寄せている[注釈4]。
庶民夜学校開設之義ニ付位置并予算等之儀過般御談之処別紙之通該校委員ヨリ申出候ニ付而者敢テ差支之廉無之候条此段御回答ニオヨビ候也
明治十二年六月 日 芝区長 相原安次郎 印
学務課長 東京府一等属 銀林綱男殿
庶民夜学校開設之義ニ付御下問之御答
一 学校位置ハ桜川女学ト定メ同校ニ於テ開設之義差支無之候事
一 月費ハ御下問之書面ニ依レハ平均一ヶ月金二十七円六十六銭七厘之六割ニ相成候得共尚詳細取調予算相立候処別紙之通相成申候然ルトキハ御下問之金額ヨリモ金八十三銭三厘超過致候事
右御下問ニ付御答申上候也
明治十二年五月 桜川女学校々務委員代 立野胤政 印
先般庶民夜学開設之義校務委員ヘモ及協議候処飯倉学校ヲ仮用候方弁理之趣ニ付右御承知相成度此段及御回答候也
明治十二年六月三日 東京府麻布区長 前田利光 印
学務課長 東京府一等属 銀林綱男 殿
先般当区赤坂学校ニ於テ庶民夜学開設之義ニ付御口達有之処尚差支有無御問合之趣承了右ハ何等支障之廉無之候依テ此段及御回答候也
明治十二年六月三日
赤坂区役所 印
府学務課御中
東京府は、各小学校の家屋・器材等を月1円で借用することで、次のように開設を布達した。
甲第六十八号 商業夜学校ヲ廃シ自今左之各校へ庶民夜学校ヲ開設候条此旨布達候事但学則并入校手続之儀ハ追テ学務課ヨリ可及報告候事
東京府知事 楠本正隆
明治十二年七月五日
芝区 桜川女学校 麻布区 飯倉小学校 赤坂区 赤坂小学校(ほか一二区略)
庶民夜学校の設置された学校では、学務課から送られた庶民夜学校の規則を区内の掲示場に貼り、各学校に配布して募集に努めた。そのためか資料[図13]のように、赤坂区役所から学務課へ10部追加を申出ている。
[図13] 庶民夜学校規則掲示物請求書(東京都公文書館所蔵)
この府立の庶民夜学校は、芝区幹事須田要、麻布区幹事青山盈教、赤坂区幹事岡田元熙が中心となって運営されていく。芝区の庶民夜学校は桜川女学校と桜田学校、麻布区は南山学校と飯倉(いいぐら)学校の教員が採用されるなど、各区内の公立小学校の教員が、当時の結約(けつやく)制に基づいて、各校校務委員との「結約」によって採用、組織された。
赤坂区の庶民夜学校は、「生徒追々増員候ニ付」として、9月24日に、芝区は、「先般及御届置候処都合有之」とあって、9月27日を10月4日に延期して開業式の執行届を提出した。各校の学校沿革誌は、この庶民夜学校に関して、次のように述べている。
明治十二年九月十日 青山盈教 庶民夜学校教師兼幹事ヲ任セラル別ニ給料四円支給セラル此時ニ当リ各区府令ニ基キ庶民夜学校ヲ興シ区民ヲ教授ス本区之ヲ飯倉小学ニ設ク故ニ同氏毎夜出勤セリ(麻布区 南山小学校)
明治十二年九月廿四日 昼間学習シ得サル商家雇人及職工ノ子弟ノ為メ赤坂小学校ニ府立庶民夜学校ヲ付設シ此日開校式ヲ挙ク(赤坂区 赤坂小学校)
明治十二年九月 庶民夜学校ヲ設ケ須田要教師兼幹事トナリ岡田氏亦タ之レカ補助トナル市家ノ徒弟窮民ノ子弟ニシテ昼間就学スル能ハサルモノヲ教育ス(芝区 桜川女子小学校)
府立の庶民夜学校は、その校則[注釈5]によれば、「入学ヲ乞フ者ハ父母或ハ傭主ヨリ本校へ願出スヘシ」として、「昼間習業ニ暇ナキ者ニ工商二科ノ端緒ヲ教授」する所と、商業夜学校より広がりをみせている。ただし、昼間学校に行ける者と女子は入学できず、年齢は「大凡一二歳以上」となり、大人科の年齢を下げ、童子科はなくなっている。12歳までは昼間に就学させるとの、就学の義務を明らかにしようとしたものであろう。
また、教則によると、在学期間を3年と定めており、習業の課程を3項に分け、第1項は商工共通の課程として大略を学び、希望に応じて第2項の商業科か第3項の工業科に進むようになっており、「一科タリ共卒業ニ至ル者ハ毎ニ試験ヲ行ヒ合格ノ者」は1科の卒業証書が与えられ、全科の卒業になった時「全科ノ卒業証言ト引換」するというように、修学の便が図られていた。
学習の内容としては、作文、習字は商工業科共に学習する。そして「証書書式や送状受取為替手形約定書ノ類及手紙文」等を第1項に準じて修学し、商業科では、「商家仕来帳合、商会結社ノ組立」等商業に属する事項を、工業科では、「物品模写、建築製図、度量衡」等工業に関する規則など、日常必要なことから高度のものへと、商工の適切な指導を定めている。
試験法も、次のように各校の統一を図り学習効果の向上に努めている。
府立庶民夜学校試験法之件
府立庶民夜学校試験之儀ハ是迄各校区々相成居不都合不解法ニ付以後一定法施行致度別紙試験法ヲ添此段御伺候也
明治十三年七月九日 十五区府立庶民夜学校幹事総代 須田 要
東京府知事松田道之殿
府立庶民夜学校試験法
第一条
試験ニ於テ優劣ヲ判スル之ヲ二等トス及第落第是ナリ其方法ハ合得点数合定点二分ノ一ニ過ルモノヲ及第トシ否ラサルモノハ落第トス
第二条
試験ニ於テ賞与スル之ヲ甲乙二等トス其方法満点即チ定点ヲ得ルモノヲ甲トシ其二点不足[仮会ハ定点十点トスレハ九点八点是ナリ]ノ点数ヲ得ルモノヲ乙トス
但得点四点不足シテ平生特別勉励ノ者ハ乙賞相当ノ勉励賞ヲ与フルコトアルヘシ
『文部省第八年報』所収の「東京府年報」には、「明治十三年庶民夜字生試験表」が載せてある。明治12年の収容予定数が1230名であったのに対して、前期1333名、後期1286名の生徒数であったことから、相当の効果をあげていたことと思われる。
また、庶民夜学校の休業について、明治12年10月25日に、生徒はほとんど工商の雇人であって、「勘定仕切等之都合」で「毎月十四日三十日三十一日」は出校が少ないので休業にしたいとの伺[図14]を、「十五区幹事惣代」として赤坂区幹事岡田元熙の名で出され、翌13年に「休業定日ハ毎日曜日及大祭祝日トス」から「休業日ハ日曜日毎月十四日三十一日小ノ月ナレハ三十日大祭祝日」と改正されるなど、本区関係の庶民夜学校幹事が、試験法とともに15区の中心となって活躍した様子がうかがえる。しかし、生徒の実情、授業の実際や細目についてはよくわからない[注釈6]。
[図14] 庶民夜学校休業伺(東京都公文書館所蔵)
2年後の明治14年に東京府会は、今まで地方税と学資蓄積金によってまかなっていた経費を次の理由によって削除し、以後府立の庶民夜学校は、各区の実情にまかせられることになった[注釈7]。
庶民夜学校経費ヲ削除シタル所以ハ夜学ハ最モ通学ノ便ヲ要スルモノニシテ毎区ニ各一校ヲ設クルモ到底不便タルヲ免レス且之ヲ地方税ヨリ支弁センヨリハ寧ロ各区協議費或ハ有志者ノ負担ニ放任スルヲ以テ穏当ト為スヘシ然ルトキハ単ニ現在設置ノ学校ヲ維持スルノミナラス或ハ漸次増置スルニ至ルヘシト云フノ主旨ニ在リ(『文部省第一〇年報』所収「東京府年報」)
各区協議費や有志者の寄附に教育費を求めた方が、通学に不便な今の状態より、だんだん増置ができるという論理であり、「七千三百八十四円」の教育費原案から、2割弱の「千三百八十九円」に減じている。しかし、「教育費ニ付府会議決ノ精神」は、このように言ってはいるが、「最モ主脳トスル所ハ蓋(ケダ)シ地方税ノ負担ヲ省減スルニアル」と「東京府年報」は結んでいる。
関連資料:【文書】小学校教育 庶民夜学校開設
関連資料:【文書】小学校教育 麻布区公立小学校附属夜学校
関連資料:【文書】教職員 教員の結約と解約
関連資料:【学校教育関連施設】