港区地域の公立小学校の設立理由をみると、その資金については、地域有志者の積極的な努力を見のがすことができない。
それは、「学制」以前の区(郷(ごう))学校設立における、地元有志者の活動から始まっている。そして、前掲(概説第3項(1)25ページの「公立小学校の開設」参照)の鞆絵(ともえ)、御田(みた)、桜川、赤坂、南海、麻布、青山、白金、桜田、南山、桜田女子、飯倉(いいぐら)、芝の各小学校設立理由からも、いかに努力したかを知ることができる[注釈8]。
[図15]は、それぞれの学校の拡張されていく様子を表わしたものである。増築改築を通して就学児童の収容を、少しでも多くしていこうとする姿がみられる。そしてそれには、学区取締や学務委員とともに、地元有志の協力なくしてはできなかったことを、各校の学校沿革誌は次のように記録している。
[図15] 港区の地域の公立小学拡張の様子(各校の『学校沿革誌』)
明治八年六月三十日校舎狭隘生徒増員ニツキ区内有志者ノ寄付ヲ以テ三十二坪二合五勺増築シ同年十一月十五日竣工ス (赤坂小学校)
明治九年教場狭隘ニツキ寄付金ヲ募集シ華族柳沢家、同稲葉家、世話掛(氏名略)及其他ノ有志者生徒ノ父兄等ヨリ若干金ヲ寄送セラレ三教場ヲ増築ス (南海小学校)
明治九年十一月学制改革ニツキ公立学校ハ総テ区内人民ノ共有物トシテ維持スヘキ旨達セラル此ニ至テ経費ノ支弁法頓ニ一変ス将来ノ維持法ヲ講スル実ニ容易ナラス玆ニ於テ本校ニ関スル世話掛出納掛等ノ役員ヲ設ケ校務ヲ分担シ東奔西走僅ニ之レカ方法ヲ定ムルヲ得タリ (桜川小学校)
明治十年本校維持法大ニ困難ヲ極ム是ニ至リ出納掛町総代等ト相議シ一時小間割ノ法ヲ以テ出金センコトヲ各地主ニ嘱約(ショクヤク)セリ蓋(ケダ)シ一間ニ付月三銭宛ナリ (南山小学校)
明治十年八月三日赤坂表町四丁目二番地士族従五位肥田浜五郎ヨリ学資金トシテ金千円寄付セラル(赤坂小学校)
明治十年三田台町一丁目六番地(附近いろはにほノ地)ニ新築ス 右建築ノタメ有志者ノ寄附左ノ如シ 従三位毛利元徳(以下氏名略)計金三千五百五十二円六十五銭 人員四百九十九人(『東京府年報』には「三田学校ハ故ノ華頂宮ノ地面ニ在リ」と記されている) (御田小学校)
開学の時ばかりではなく、学校維持や増改築に対しての地元有志の寄附行為が大きな役割を果たしており、白金小学校の場合、校舎の貸主が修理し環境を整え、赤坂区長が区内の公立小学校に寄附金を出すなど地元有志の協力は、明治10年代以降も熱心に続けられている。しかしながら、南山・桜田小学校の一部には、寄附行為に対する不満も生じてきていた。
明治十一年天野清兵衛上申シテ学校維持法ヲ速ニ確立アランコトヲ請フ蓋シ此ノ時ニ当リ各町漸ク小間割ノ件ニ付キ不平囂(ゴウ)然タレハナリ (南山小学校)
明治十二年三月廿九日東京府華族従五位島津忠亮赤坂区長奉職中毎月金三十円宛寄付セラル (赤坂小学校)
明治二十年白金村戸長藤田重太郎氏校舎ノ破レタルヲ慨キ校務員(氏名略)ト協議シ之ヲ大鳥氏ニ謀リシガ……(貸主による)修繕全ク成リ校舎一新シ児童数漸次増加スルニ至ル (白金小学校)
明治廿二年八月本校ハ改正道路ニ当ルヲ以テ移転ヲ命セラル故ニ金一万二千余円ヲ以テ敷地一千〇三坪七合五勺ヲ三田四国町二番地ニ購フ現在ノ地是ナリ当時特ニ尽カセシ議員(四名氏名略)…本村荘平ヨリ二千余円杉井勝太郎ヨリ一千余円ヲ寄附セリ(芝小学校)
明治二十三年十月校舎新築ノ工ヲ起ス其建築費ハ区内ノ重立タル山田忠兵衛氏等率先シテ有志ノ寄附金ヲ募集セリ(南海小学校)
大区小区制(学制期)の時期、港区地域は各小区ごとに公立小学校が逐次設立されてきた過程は、第1節第2項(2)「学制」期の公立小学校の設立の「港区地域の小学校の設立過程」で述べたとおりである。
[図16]は、明治12年(1879)の公・私立小学校と、そのまわり約100メートルの円である。港区地域の住居密集地として考えられる地域であり、ここに住む学齢児を13公立小学校ですべて受け入れることが、いかに無理であったかが理解できる。
[図16] 公・私立小学校による就学児分布予想図・明治12年
関連資料:【学校教育関連施設】