地域の協力と苦心

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 各学校の沿革誌は、増改築による教室の増設に、地元有力者である学校世話掛の努力と苦心の跡も示している[図17][図18][図19]。学校の整備・維持のために、地元有力者たちの寄附を仰ぎ、聞小間割(貸地料金1円を以て一小間割とし、通例一小間に3銭以下を課す江戸時代からの公費募金法)による費用徴集の了解など、桜川小学校の例のように、東奔西走の苦労がどの学校にもあった。このことについて、学監モルレーは「真ニ驚クヘクシテ又賀スヘキ事タリ」と賞賛して『文部省第六年報』に報告している。
 

[図17] 桜川小学校沿革誌


[図18] 南山小学校沿革誌


[図19] 赤坂小学校沿革誌

 
 明治11年7月、「郡区町村編制法」により芝・麻布・赤坂区が成立した時の、桜田・桜田女子小学校維持の実状を、『芝区誌』の中の「桜田両校維持演舌書」は、次のように述べている。
 
    桜田両校維持演舌書
  (前略)本区内ニハ従前ヨリ附属シタル学級学地等ノ校費ヲ補フナク唯一時新築ヲ以テ集メタル金額ノミヲ以テ永久保存ノ目途ニモ之ナク(中略)本年(明治十一年)一月中就学子弟ノ倍多クシテ学校資金ノ乏ヲ以テ区内一般協議ノ末府庁へ上聞シ聞((ママ))小間一間ニ付金二銭宛ヲ賦課(フカ)シ両校費用ニ充テ維持セシニ本年五月ヨリ校長ノ官給ヲ廃止シ本校費用中ヲ以テ支給スヘキノ御達示アリ又七月ヨリ民費賦課改正ニ至リシカ故ニ前条聞小間賦課モ其方法ヲ亜議((ママ))セサル得ス(後略)
 
 「然レドモ」として、返済の仮法として「私有地一坪ニ付金五毛宛ヲ賦課スヘキコトヲ区町総代人之相謀リタレトモ其后何等回答無シ」とあり、明治11年に制定された地方税(従来の府県税と民費を統合されたもの)に合わせて、区の費用としての協議費徴集による税金の重課が、学校維持費調達に困難さを増してきたことを示している。このことは[図18]の南山小学校の沿革誌にもあり、当時の港区地域の学校は、どこも、学校維持については問題をかかえていたといえよう。
 学校の管理運営に直接の責任を持つ学校世話掛は、東京府の教育費削減に伴う訓導(くんどう)1名の官費負担が学校費用での負担になったこと、しかも民費徴集の困難さのために、学校財産取得の道を講じるなどの校費対策に奔走せざるを得なかった。
 また、15区6郡の成立とともに、政府や東京府の公立小学校補助金は、当時のデフレ政策により節減され、公立小学校の設立管理は各区の主務とすることになってきた。
 明治15年の「小学教則」改正による新学制の施行に対して、麻布区は、経費節約も考慮して、麻布小学校に高等・初等科を設置し、南山・飯倉小学校[注釈9]に中等・初等科を置き、その卒業生を麻布小学校の高等科に進学する体制を、学務委員 の協議により施行した。このことに対して、麻布・南山小学校の沿革誌は次のように述べている。
 
  『麻布小学校沿革誌』 (明治15年4月)
  小学教則改正セラレ従前ノ尋常科生徒ヲ検定シテ新定教則ノ初等中等高等ノ三科ニ編成セリ是ノ改正ハ小学全学期年数六年ヲ変シテ八年トセシモノナレバ新ニ加設スル高等科ノ学科ハ従前ノ程度ニ比較シテ稍(ヤ)ヤ数歩ヲ進メタリ教授器械ノ設備モ随テ高尚整頓セサルヲ得ス是ニ於テ計費節約ノ要ヲ感シ本校ハ区内中央ニ位スル故ニ高等科ヲ玆(ココ)ニ設ケ南山飯倉両校ハ中等科限リトシ其卒業生ハ本校ニ来リテ高等科ヲ修学セシム然ルニ独リ高等科ヲノミ設ケテハ他二校ト不権衡(ケンコウ)ヲ生ズルガ故ニ本校ニハ中等科ヲ設ケザルコトヽナレリ但幼稚ナル初等科ノ児童ハ通学ノ便宜ヲ察シテ当分本校ニ附属セシメタリ故ニ本校ニテ初等科ヲ卒リシモノハ全テ他ノ二校ノ孰(イズ)レカニ往キ中等科ヲ修学シ再ヒ来テ高等科ヲ修学セサルヲ得ザルノ制定ナリ更ニ此ノ三校ノ聯絡(レンラク)ヲ謀ラン為メニ他ノ二校ノ校長ハ各本校ニ来リテ高等科生徒ノ授業ニ従事シタリ
 
  『南山小学校沿革誌』 (明治15年5月1日)
  新学制ヲ実行シ教則ヲ改メテ高等科中等科初等科ノ三等ニ分タル(中略)而シテ其実施ノ方法ニ付学務委員等相協議シ遂ニ其認可ヲ得テ左ノ如ク実行セリ
  一 麻布小学ヲ東鳥居坂町三番地ニ移転ス
  一 麻布小学ハ区内中央ノ地ニ位スルヲ以テ一区内共通ノ高等小学トシ又併セテ初等科ヲ置ク
  一 南山小学及飯倉小学ハ其方面ノ中等小学トシ併セテ初等科ヲ置ク
  前記ノ如ク実施シタルニヨリ本校ハ新学則ニヨリ初等科中等科ノ両科ヲ設ケ中等科卒業後ハ之ヲ麻布校ニ送付ス又麻布校初等科卒業生ノ其方面ニ当ルモノヲ受ケタリ
 
 そして、3校の校長を麻布小学校の訓導に任じ、南山・飯倉両小学校の訓導兼務(各校校長)として、高等科生徒の指導に当たらせた。 このことは、経費節減のための合理化と、教育効果の低落を防ぐ方策であったとみられるが、各校の沿革誌はまた次のように記している。
 
  嗟呼(アア)此方法タル表面甚タ美ナルニ似タレトモ言フベカラザル父兄ノ苦情ト子弟ノ不便ヲ醸(カモ)シ空シク不就学ヲ夥多ナラシムルノ原因トナレリ後ノ方針ヲ執ルノ人豈ニ鑑戒(カンカイ)セザルベケンヤ (明治15年 南山小学校)
 
  本校ニ中等科設置ノ認可ヲ受ク
  因日先キニ本校ヲ以テ区内高等小学校ト定メ中等科ノ設置ナキタメ生徒年ニ減シ加フルニ通学ノ不便及屢(シバシバ)学校ヲ変更スルノ不利ヲ唱フルモノ多キニ依リ改メテ認可ヲ得初等科卒業生ヲ本校ニ留メ逐次進級三年ヲ経中等科全部ヲ設置スルノ計画ニ改メタリ(明治17年5月 麻布小学校)
 
 設立者側の意図は就学児減少を招き、さらなる対応を求められたといえる。
 
関連資料:【文書】小学校教育 飯倉小学校の中等科・初等科等の設置
関連資料:【文書】小学校教育 南山小学校の中等科・初等科附属夜学校設置
関連資料:【学校教育関連施設】