教育費の節減と授業料

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 当時の東京府における教育費の約3分の1は授業料であり、支出の4割強は、教師の給与であった。
 南山小学校の学校沿革誌は、[図20][図21]のようにその金額を克明に記録しているが、教師給料が授業料では賄(まかな)いきれなくなってきた。文部省の委托金は約10分の1であり、他は賦課金と寄附金が主である。南山小学校の府補助金が明治11年には年120円、翌年は100円である。明治13年の文部省の補助金は生徒1人当たり年32銭であった。
 

[図20] 南山小学校授業料 教師給料 委託金 維持費補助一覧・明治10年(『南山小学校沿革誌』)


[図21] 南山小学校授業料 教師給料 委託金 維持費補助一覧・明治12年(『南山小学校沿革誌』)

 
 『芝区誌』によれば、明治13年の前半年度学校費492円50銭、後半年度学校費745円88銭8厘の中から、それぞれ1校60円ずつの480円を補助費として支出している。
 太政官(だじょうかん)布告によって、土地に賦課する地価割は、地租の5分の1以内から、7分の1を超過できないことになり、これが、授業料の徴集改訂となって値上げされることになった。
 御田小学校の沿革誌では、尋常(じんじょう)科1カ月30銭から70銭、高等科は50銭から1円までを、任意ではなく全員から納入させるようになったようであり、芝小学校では、そのための退学者が34名もいたことを沿革誌は記録している。それぞれの学校の相違はあるが、明治19年から24年にかけて、授業料の学校維持に関する重みが増したと思われる[図22][図23][図24]。しかし、明治20年代に入ると、麻布・御田小学校のほかにも「生徒非常ニ増員ス」(明治20年白金小)、「生徒漸ク増加シ」(明治20年南山小)、「歳々児童数ノ激増アリ」(明治23年青山小)、「逐年生徒増加スルヲ以テ赤坂小学校分校トシ」(明治22年赤坂小)と各小学校の沿革誌にあるように、公立小学校への就学が急増してきたことを示している。
 

[図22] 芝小学校沿革誌


[図23] 月謝増額届・芝区私立小学組合(東京都公文書館所蔵)


[図24] 御田・麻布小学校沿革誌

 
 明治16年の南山小学校の生徒種別表によると、「士族子弟五六名、官吏子弟一三〇名、農工商子弟七一名」となっている。これは、私立小学との旧来の関係が切れはじめたこと、授業料の納入に応じられる家庭が増し、内容や施設、設備の充実した公立学校への指向が現われてきたものであろう。児童を収容する施設の増設、経費の増大が新しい課題になっていた。
 また、私立小学校においても、明治19年には、普通教育を目的とする私立学校の再認可が行われ、明治21年ごろは、各区ごとに「私立学校組合」を設けるよう促されている。そして規約を定めて設備等の改善を図り、東京府の認可を得ることとしたので、改良に至らない私立小学校の廃業が多く出て、公立の児童数増加につながった。安い授業料での学校維持も、私立小学校の経営を苦しめていたようである。
 
関連資料:【文書】教育行政 <参考>小学校設備の基準
関連資料:【文書】教職員 明治初年の教員待遇
関連資料:【図表および統計資料】教育行政 教育費の変遷 一般会計決算総額と教育費決算額 (通年)(明治期)(昭和22~38年度)(昭和39年度以降)
関連資料:【図表および統計資料】教育行政 一般会計決算総額と教育費決算額の割合 (通年)(明治期)(昭和22~38年度)(昭和39年度以降)
関連資料:【学校教育関連施設】