区費による就学援助

246 ~ 254 / 417ページ
 東京府が「昼間習業ニ暇ナキ者ニ商工二科ノ端緒ヲ教授スル所」として、地方税と学費蓄積金をもって、各区に1校づつ庶民夜学校を設立した翌年の明治13年に、設立されなかった南海小学校の校務委員から、次のような「共立夜学校開設」の届が、東京府に提出された。
 
  明治十三年十一月十八日
  知事 書記官 学務課
  芝区公立南海小学校務委員担当区域内学齢児昼間就学スルコト能(アタ)ハサルモノヽ為(タ)メ共立夜学校開設之義別紙之通届出候条取調候処不都合之廉(カド)無之旨趣候間因テ呈一覧候也
   夜学校開設之儀ニ付上申
  私共校務委員担当区域内不就学ノ学齢児其外昼間習業ノ暇ナキ者実際ヲ熟思スルニ常ニ多少ノ患是アリ因テ漸次不学ノ徒ノ減少ヲ謀ルニ夜学ニ如クモノナキヲ発起仕候ニ付先試ニ校務委員一同協議ヲ以公立南海校内ニ於テ夜学校ヲ開キ別紙規則書ニ基キ本年十一月二五日ヨリ施行致シ校費ノ儀ハ生徒ノ月謝及有志者ノ寄贈金ヲ以テ支弁ノ積リニ有之因テ規則書相添此段上申候也
       明治十三年十一月一日    右校務委員 伊藤三郎兵衛 ㊞
                           井口 久次郎 ㊞
                 芝田町一丁目七番地 山田 忠兵衛 ㊞
                           花沢 清 平 ㊞
                           手塚 長 八 ㊞
                           田島 安太郎 ㊞
                      学務委員 浦口 善 養 ㊞
   東京府知事 松田道之殿
 前書三通届出候ニ付奥印仕候也     東京府芝区長 前田 利充 ㊞
 校則・教則 略 (府立の庶民夜学校に同じ)
 
 校則によれば、「十銭以上二十銭以内」の月謝を定めているが、「最下ノ月謝モ納ル能ハサルモノハ其幾分ヲ減シ或ハ無月謝ニテ入校ヲ許スコトアルベシ」としてあり、地元有志の「不学ノ徒ノ減少」にかける熱意が伝わってくる。
 府立の庶民夜学校の校費は、初め地方税と学費蓄積金であったのが、明治13年には、校費5391円のうち、学資蓄積金利子が750円で、大部分の4641円は15区支弁となり、翌明治14年7月には、廃止されることとなった。
 これに対して、芝、麻布、赤坂の各区は、区会の議決によって区協議費(明治17年以降区費となる)により、区立として継続されることになった。
 赤坂区の場合は、赤坂小学校の学校沿革誌によって、その様子を知ることができる。
 
  十四年七月十五日 庶民夜学校廃止セラル
  同 年十月一日 府立庶民夜学校廃止セラルヽハ区民ノ不利尠ナカラサルヲ以テ継続維持ヲ出願シ区費支弁トシ付属夜学校トシテ開校ス (『赤坂小学校沿革誌』)
 
 麻布区では、区会の議決により継続維持するとともに、3校(麻布・飯倉・南山小)に分けて、生徒を全員受け入れることとなった。南山小学校の沿革誌は、
 
  区会ノ議決ニヨリ従来府立タリシ麻布庶民夜学校ノ業務ヲ区ニテ継続シ麻布飯倉南山ノ三校ニ分離シ各其附属タラシム故ニ是ヨリ本校ニ於テ夜学校ヲ設ケ称シテ南山小学附属庶民夜学校ト云フ(明治14年)
 
と記している。麻布小学校の学校沿革誌には、次のように記録されている。
 
  明治十四年八月 麻布庶民夜学校併置(翌年三月マデ)
 
 麻布小学校は、明治15年に今までの市兵衛町から、東鳥居町に移転して校舎を新築したためと思われるが、夜学校生徒をどう処置したかはわかっていない。
 芝区の場合は、次の記録が残されている。
 
  第二百九十五号
   夜学校継続ニ付伺
   本年七月十五日限リ府立庶民夜学校ヲ廃セラレ候処今般当区会ノ議決ニ依リ更ニ之レヲ継続致候ニ付テハ別紙規則書ニ準拠シ維持仕度依テ右規則書相添此段相伺候也
    明治十四年八月十日         東京府芝区長奥平昌邁 ㊞
    東京府知事松田道之殿
      芝区公立小学附属夜学校規則
      第一章 維持方法
  第一条 公立夜学校ハ這回区有ノ議決ニ拠リ府立庶民夜学校ヲ継続シ専ラ生徒通学ノ便宜ヲ図リ明治十四年八月ヨリ鞆絵桜川南海ノ三校へ附属シ之ヲ設クルモノトス
    但其名称ハ左ノ如シ
     公立鞆絵小学附庶民夜学校
     公立桜川小学附庶民夜学校
     公立南海小学附庶民夜学校
  第二条 当分校費ノ補助トシテ一校ニ付一ヶ月金五円ツヽ区内協議費ヲ以テ之ヲ支弁スルモノトス
  第三条 夜学校ノ校務ハ該校々務委員ノ兼任トシ総テ本区公立学校維持仮条例ニ由リ之ヲ整理スルモノトス
  第四条 夜学校ニ於テ所用ノ書籍及ヒ器械等若シ不足スルトキハ其所属本校ノ書籍備品ヲ以テ代用スルモノトス
  第五条 夜学ノ教員ハ当分其所属本校ノ教員ヲ以テ之レニ充ツルモノトス
   但其人員ノ都合ニ寄リ他校ノ教員ヲ委嘱スルコトアルヘシ
  第六条 教員ノ給料及ヒ慰労金等ハ更ニ委嘱主被嘱者ノ結約スル所ニ任スルモノトス
     第二章 校則 略(府立の庶民夜学校と同じ)
     第三章 教則 略(府立の庶民夜学校と同じ)
 
 先に開設された南海小学校の共立夜学校は、一旦廃止して改めて区立の庶民夜学校となり、生徒は全員収容されている[図25]。

[図25] 南海小学校の共立夜学校廃業届(東京都公文書館所蔵)

 このように設置された各区の庶民夜学校は、生徒の通学の便を考慮して増設され、更に区費をもって運営されるなど、発展した形をとることになったのは、日常生活に必要な事柄の教育を願う区民の協力にほかならない。その後、芝区の明治17年度区費支出予算の教育費中に、359円の夜学校費が見出される。だが明治18年度支出予算には、芝区の小学校費はあるが夜学校費は計上されていない。明治19年の「小学校令」前後にその使命を終らせたものであろう。
 明治17、18年にかけての教育費大幅節減により小学校維持は、全国的な問題であった。東京府財政も、区費収入も窮屈になっていた。明治12年に芝小学校が設立された以後、赤坂区の赤坂小学校分校ができ、明治27年に中之町小学校(現檜町(ひのきちょう)小学校) として独立した以外、芝、麻布区ともに、明治35年まで学校新設がなされていなかったことは、このことの現われであろう。
 『芝区誌』に、明治17、18年度の区費支出予算と追加予算が載せてある[図26][注釈10]。それによれば、区費の8割強が教育費に当てられている。明治17年度の追加予算9164円50銭5厘はすべて教育費であり、桜川小学校、鞆絵小学校、南海小学校の校舎増築、模様替費になっている。明治18年度の追加予算2880円42銭は、南海小学校の三田四国町への新築費であり、前年度の増築分と合わせて工事着工となっている。
 

[図26] 芝区区費支出予算(『芝区誌』)

 
 桜川小学校と芝小学校の学校沿革誌によれば、校舎改築について次のように記録している。明治前期は、財政不如意で不便をしのんでいたことがわかる。
 
  爾来生徒漸クニ増加シ校舎ハ従テ狭隘トナリ加之ナラス年月ヲ経ルニ従ヒ朽壊用ニ堪ヘス柱傾キ軒破レテ復タ修繕ヲ加フヘカラサルニ至レリ然レトモ改築ノ議未タ熟セス空シク経過セシカ時維レ明治二十六年十二月二十一日ノ区会ニ於テ遂ニ木校芝鞆絵ノ三校同時ニ改築スベキノ議決ス (桜川小学校)
 
  二六年二月本校ハ予テ新築有ルヘキ筈ナルニ雨後消滅セシ有様ナレバ速ニ着手アランコトヲ具申ス
  十一月芝区々会ハ弥々金六千余円ノ予算ヲ以テ新築ノ事ヲ議決セリ(芝小学校)
 
 桜田・桜田女子小学校の模範的校舎新築、御田・南海の移転新築に続き、芝区の各学校は、区議会の努力によって全面的に改善されたことになった。
 麻布区においても、明治15年に麻布小学校が鳥居坂に移転新築しており、明治20年には、麻布校増築とともに、南山小学校も「生徒漸ク増加シ教室狭隘ナルヲ以テ従来ノ家屋ニ接続シテ二階屋三十八坪五合ヲ増築ス」と学校沿革誌に記してある。また、飯倉小学校は明治25年、赤羽河岸の官有地に移転して、2階建150坪、平家79坪7合余の校舎を新築している(『麻布区史』)。
 芝・麻布・赤坂の各区は、児童数の増加と就学率の向上をめざして、庶民夜学校の区費での継続、校舎の増改築、教員の確保など、就学児の収容条件の整備のために、区費の大半を充て、教育の振興に努めていたことがわかる。こうしたなかで、明治22年、赤坂区は赤坂小学校分校(後の中之町小学校・現檜町小学校 )を発足させるに至った。
 しかしながら、それでも、明治の後期に入った25年の就学率は、芝、麻布区が約56パーセント、赤坂区は51パーセントに過ぎなかった(『新修港区史』)。
 
関連資料:【文書】教育行政 芝区費支出予算
関連資料:【文書】教育行政 明治期の赤坂区予算の教育費累年表
関連資料:【文書】教育行政 小学校附属夜学校廃止と合併
関連資料:【文書】小学校教育 桜川小学校経費の推移
関連資料:【文書】小学校教育 元庶民夜学校の書籍及び器械の拝借
関連資料:【文書】小学校教育 南山小学校の中等科・初等科附属夜学校設置
関連資料:【文書】教職員 麻布区教員の慰労金
関連資料:【図表および統計資料】教育行政 教育費の変遷 一般会計決算総額と教育費決算額 (通年)(明治期)(昭和22~38年度)(昭和39年度以降)
関連資料:【図表および統計資料】教育行政 一般会計決算総額と教育費決算額の割合 (通年)(明治期)(昭和22~38年度)(昭和39年度以降)
関連資料:【学校教育関連施設】