明治5年(1872)に「学制」が公布され、全国に小学校が設立されることとなったが、師範(しはん)学校の創設も明治5年であり、「師範学校卒業免状或ハ中学免状ヲ得シモノ」は1人もいず、府県としては教師の確保が焦眉(しょうび)の急務であった。
文部省は、東京師範学校の設置を図るとともに、明治4年に文部省直轄とした東京府の6小学校において、府県の教員にこれを参観させ、授業の方法を知らせることにした。『東京師範学校沿革略誌』は、これを次のように記している。
東京府ノ小学六個ヲ其直轄ニ帰シ仍テ以テ学制撰定ノ実験ニ供シ又府県ノ教員ヲ此ニ蒐集シ参観以テ授業ノ方法ヲ了得セシム
芝増上寺中源流院の小学第一校(現鞆絵(ともえ)小学校)でのその記録は、まだみつからず不明であるが 、明治6年に第二中学区一番小学鞆絵学校として発足した時の教員は、東京府の小学句読授(くとうじゅ)(明治4年)から文部省の訓導(くんどう)心得(明治5年)となった二等訓導1名と、小学句読授から文部省の授業生となった一等授業生2名、文部省の授業生からの一等授業生の計4名である。このことから、東京府は同校を公立小学校の中心として、文部省直轄小学校としての「授業ノ方法ヲ了得セシム」る役割を継続させようとしたものと思われる。
東京府は、児童の就学率を高めるため既設の寺子屋・私塾を私立小学校とし、公立の小学校を順次設立していく方針をとった。そして、「東京府管下中小学創立大意」にある「当時迄有来ノ学舎ハ其儘相用教授方小学教則ニ相改可申事」とあるように文部省の「小学教則」を実践すべき教師の短期講習にとりかかった。そして、この講習終了者をもって私立小学校の開設を許すことにした。
明治六年四月小学教員講習所ヲ本庁構内ニ創設ス昇時ニ当り府下公立小学ノ数四十余校家塾ノ数千百余校アリ公立小学ハ文部省設クル所ノ教則ニ拠ルヲ以テ稍(ヤヤ)普通学ノ体裁(テイサイ)ヲ得ルト雖家塾ニ至リテハ恰(アタカ)モ従来ノ習字師ノ如キ者ニシテ其正則ヲ践ムモノ十ニ二三ナシ於是乎該所ヲ設置シ家塾ノ教員ヲ集メテ学術ノ短所ヲ教授シ授業ノ方法ヲ伝習ス(明治14年『文部省第九年報』所収「東京府年報」)
これは、東京府が小学校教員の養成について、組織的に計画した最初のものであり、この「教員講習所」[注釈1]は東京府師範学校の前身でもあった。ここでの講習生は、試験に及第した教員志望者と家塾・私塾の教師であり、明治8年2月の文部省への回答によれば、及第講習生男15名、女2名、私学講習生男184名、女21名である。私立小学校の教師養成が東京府として急務であり、これに力を注いだことが知られる。
講習所としては、文部省直轄であった6小学校の一等訓導を輪番で指導に当てたが、「十一月ニ至リ東京師範学校卒業生林多一郎ヲ三等訓導ニ補シ他ノ教員二名ヲ合セテ教官トス」として、明治6年に初めて師範教育を受けた指導者を迎えた。明治7年5月に林多一郎は栃木県に転出し、翌6月に林と同じ東京師範学校一期生の金子尚政が二等訓導として派遣された。しかし、これも間もなく筑摩県へ転出することになり、教官の短期間での異動が続いたが、講習所は教員養成を急いでいた。
港区地域の公立小学校としては、鞆絵学校のように文部省直轄としての教員によって組織した学校、南海学校のように区学校の教師から、講習所の講習を終了してそのまま教員組織を構成した学校、桜川・赤坂学校のようにそれらの組み合わせによる教員組織をもった学校と、東京府の公立小学校の教員組織のあり方を合わせ持った状態を示していた。また明治6、7年に開学した私立小学校が、53も数えることができることは、この教員講習所が、港区地域の教師養成にも大きな役割を果たしたことを示している。
関連資料:【文書】教職員 鞆絵学校訓導の心得