先に述べた小学教員講習所は、明治9年3月に校舎を府庁構内に建築し、東京府小学師範学校と改称した。9月には附属小学校を同校内に設置し、11月に改めて校名を東京府師範学校とした。その事情を次のように述べている。
学制頒布ノ際府庁構中ニ小学講習所ヲ置キ生徒ヲ通学セシメ小学授業ノ方法ヲ教授セリト雖(イエド)モ当時小学教員ニ乏シク速成ヲ要スルカ故ニ自然普通科完備ノ教員ヲ得ルコト能ハス因テ本年講習所ヲ改メテ東京府師範学校ト称シ男子ハ年齢満十八年以上三十五年以下女子ハ満十四年以上三十五年以下ノ者ニシテ尋常普通ノ書ヲ渉猟(ショウリョウ)シ略算術ヲ(和洋ヲ論セス)脩メ品行端正ナル者ヲ募集シ学資トシテ男子ハ一ヶ月金四円ヲ貸与シ二ケ年ヲ以テ卒業ノ目的トス女子ハ一ヶ月金二円ヲ給与シ一ケ年三ヶ月ヲ以テ卒業ノ目的トス卒業ノ上ハ卒業証書ヲ付与シ其学力ニ応シ給料ヲ定メ府下公立小学教員ニ従事セシメ或ハ府下ニ於テ私立小学校ヲ開設スルコトヲ許ス(明治9年『文部省第四年報』所収「東京府年報」)
東京府師範学校の学則によれば、生徒は自費師範生、貸費師範生(1カ月4円の貸与)、公費女子師範生(1カ月2円の給与)、速成生に分けられ、卒業後、貸費生徒は3年間の、公費女子生徒は2年間、成績に相当する給料で府下公立小学校に就職することになっていた。自費生徒の卒業後は、私学を開業するか、府下公立小学校に就職するかは、各自の希望に任せた。
明治10年になって、男・女子小学師範科生のほか、速成生を一期予科生、二期予科生として、試験の上入学させた。
一期予科生(常ニ四十人ヲ置ク)粗(ホボ)普通学ニ渉(ワタ)ル者ヲ挙テ速成セシム故ニ学期ヲ六ヶ月トス学資一ヶ月金二円ヲ給ス
二期予科生(常ニ三十人ヲ置ク)村落ニ土着ノ者ヲ募集スルモノナリ卒業ノ上ハ其土地ノ公学校ニ従事セシムル故ニ其区内ヨリ学資トシテ一ケ月金一円ヲ出サシム学期ヲ一年トシ六ヶ月ヲ以テ一期トシ分テ二級トス学資一ヶ月金四円(内一円ハ区内ヨリ出スモノ)(明治10年『東京府年報』)
この年府師範学校は、官立師範学校卒業生が多くなったことと、経費不足の理由により、男女小学師範生(学期2カ年)の養成を止め、「公私立小学教員ヲシテ師範学科中ノ短所ヲ補習」させるための、夜学の師範分校を西久保巴町鞆絵学校、本郷元町玉藻学校、日本橋久松町久松学校の3小学校内に開設した。初めは、府内6カ所の予定(本区では桜川・麻布学校)であったが、これも経費の都合により縮小されている。しかし、明治12年には、財政上の都合によりこの分校は廃止された。
その上、明治13、14年には、東京府会において官立師範学校が東京にあるとして、経費軽減のため師範学校費の削除を議決するなど、その存続が危ぶまれる状態が続いた。
師範学校制度が確立して、東京府の教員養成機関が確実な形態を備えたのは、明治14年の文部省による「師範学校教則大綱」に準拠して、「東京府師範学校規則」を改定した明治16年以降のことであった。
明治16年までに、師範科の卒業生は男子14名、女子20名に対して、速成科で養成された者は350名を数えている。東京府における中堅教師養成に大きな役割を果たしたというべきであろう。
明治19年4月、「師範学校令」が公布され、官立と府立の師範学校は、それぞれ高等師範学校と尋常(じんじょう)師範学校に発展し、中・小学校の教師養成という師範教育の基礎ができた。