教員に対する要請

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 「学制」前期の教員は、数を急いで充足するためもあってか、年齢も経歴も学力もまちまちであった。しかしその後、官公立師範学校の卒業生も出、教員の講習も進められ、教員の需要も満たされるようになってきた。そのため、東京府は、明治10年に教員の一斉学力試験を行い、これまでの教員全部を廃し、同じ日に試験結果に相当する地位に任じるという、思いきった教師改造措置をとった。
 このようにして質が高められ、実際の教育にたずさわった教師の役割は、「身ヲ脩(オサ)メ智ヲ開キ才芸ヲ長スル」ように子弟を学校で育てることであり、まだ、道徳教育にはあまり重きが置かれてはいなかった。この学制期における徳育の軽視を憂いたのは、宮中と政府上層部であった。「教育令」による自由主義の教育政策は、すでに見たように、問題を解決することができず、政府は明治13年に「教育令」を改正するにあたり、修身を諸学科の首位におくように改めた。そして同14年に「小学校教員心得」を制定し、文部省から各府県に達した。
 
  人ヲ導キテ良善ナラシムルハ多識ナラシムルニ比スレハ更ニ緊要ナリトス故ニ教員タル者ハ殊ニ道徳ノ教育ニ力ヲ用ヒ生徒ヲシテ皇室ニ忠ニシテ国家ヲ愛シ父母ニ孝ニシテ長上ヲ敬シ朋友ニ信ニシテ卑(ヒ)幼ヲ慈(イツク)シミ及自己ヲ重ンスル等凡テ人倫ノ大道ニ通暁(ギョウ)セシメ且常ニ己カ身ヲ以テ之カ模範トナリ生徒ヲシテ徳性ニ薫染(クンセン)シ善行ニ感化セシメンコトヲ務ムヘシ(第1項)
 
 この、多識ならしむるよりも「道徳ノ教育ニ力ヲ用ヒ」ることの方が緊要であるとの第1項が、教員心得の理念になっている。そして、第2項以下で我が国に固有な徳目をあげてこれに則るべきことを示し、最後に「品行ヲ尚ク」して「学識ヲ広メ経験ヲ積ム」ことが務めであり、「其職業ノ光沢ヲ増ス所以ナリ」と結んでいる。
 また、13項には、次のように政治・宗教にかたよらず、中正であるように求めている。
 
  生徒若シ党派ヲ生シ争論ヲ発スル等ノコトアラハ之ヲ処置スル極メテ穏当詳密ニシテ偏頗(ヘンパ)ノ弊ナク苛刻ノ失ナカランヲ要ス故ニ教員タル者ハ常ニ寛厚ノ量ヲ養ヒ中正ノ見ヲ持シ就中政治及宗教上ニ渉リ執拗矯激(シツヨウキョウゲキ)ノ言論ヲナス等ノコトアルヘカラス
 
 このことは、師範学校の教育と合わせて、政府の政策には忠実に、儒教主義に徹した教育実践者たる教員を求めるものであった。
 また、改正「教育令」の「品行不正ナルモノハ教員タルコトヲ得ス」との但書による「教員品行検定規則」が、教員心得の1カ月後に文部省より達せられた。
 
  第一条 学校教員ノ品行ハ左ノ一款若クハ数款ニ触ルヽ者ヲ以テ品行不正ト認ムヘシ
   第一款 懲役若クハ禁獄若クハ鎖錮(サコ)ノ刑ヲ受ケタル者
   第二款 前款ノ刑ヲ受ケ存留養親老小廃疾婦女等ノ故ヲ以テ収贖(ショク)ヲ聴サレタル者
   第三款 身代限ノ処分ヲ受ケ未タ弁償ノ義務ヲ終ヘサル者
   第四款 荒酗(コウク)暴激等総テ教員タルノ面目ニ関スル汚行アル者
  第二条 第一条ノ一款若クハ数款ニ触ルヽ者ハ学校職員ノ職ニ就カシムルヲ得ス又就職ノ後ト雖モ其職ヲ停罷(テイヒ)スヘキモノトス
      但本文ノ場合ニ於テハ本人有スル所ノ師範学校卒業証書教員免許状ヲ没収スヘシ
      (第三条・第四条 略)
 
 この「品行検定規則」は、小学校の教員だけではなく、大学から小学まですべての教員に適用されるもので、教育の正常な姿を挽回しようとする表われであり厳しいものであった。
 小学校教員の基本体制は、明治23年の2度目の「小学校令」の第6章「小学校長及教員」によって確立された。これまでは、これの整備確立に対する模索の過程であったといってよいであろう。