公立学校の教員構成

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 東京府は、公立小学校設立に対して、訓導(くんどう)1人・授業生2人を置く計画であった。港区地域の公立小学校教員構成は、設立伺の中の教員履歴によって知ることができる。そして、それぞれの学校成立状況により、教員構成に特徴があることが知られる。
 鞆絵(ともえ)学校は文部省直轄学校の教員で構成され、御田(みた)・南海学校は区学校の教員によっており、桜川学校は区学校(育幼社)からと新たに任じられた教員との編成であった。また明治7年(1874)設立の麻布学校は、府公立小学校の教員を経験した者によっている。なお赤坂学校の設立伺には、教員履歴に「姓名并履歴ハ追而差出候事」とあり、設立時における教員組織のむずかしさがうかがえる。
 このことは、次に掲げた文部省直轄学校からの鞆絵学校、区学校開蒙社(かいもうしゃ)からの御田学校、新設された麻布学校 [注釈2]の教員履歴からうかがうことができる([図2][図3][図4]各小学校「設立伺」の教員履歴)。
 

[図2] 第二中学区一番小学 鞆絵学校教員〔一等授業生 高久守静 略〕(東京都公文書館所蔵資料より作成)


[図3] 第二中学区三番小学 御田学校教員〔授業生傭 篠原吉亮 略〕(東京都公文書館所蔵資料より作成)


[図4] 第二中学区十五番小学 麻布学校教員(東京都公文書館所蔵資料より作成)

 明治9年設立の桜田学校は、「教員一名官費ヲ以御派出相願度候」とあり、棲霞(せいか)学校(青山学校分校となり後併合された)では、それに加えて「授業生ノ儀ハ開校ノ上生徒之多少ニ依テ適宜ニ相傭申度事」とあって、主宰の者(「東京府下学事巡視功程」における「首座教員」)としての訓導を得てから教員構成をするため教員を請願する学区取締の苦労は、港区地域の公立学校教員移動表の上からもうかがうことができる。
 東京府は、教員の速成に努めて需要を満たしたが、学事を改正するに当たり明治9年から10年にかけて教員組織の再編成を行った。そのために「教則」の改正に伴う「教員ノ任ニ堪エサル者処分」のため、「小学教師試験法」を実施して、合格者は訓導に、不合格者は准訓導に任じた[注釈3]。そして、その結果によって、「教員等級並月俸規則」に照らし、教員の等級・月俸を一人一人に定めた。これによると、小学教員を訓導と准訓導に区分し、それぞれ六等までにして、訓導は師範学校卒業者か検定合格者の全科兼修の者であり、それ以外は准訓導になった。
 港区地域の公立小学校一等授業生以上の結果は、「[図5]教員移動表(明治10年の欄)」のように、1名の師範(しはん)学校卒業生(試験免除)を除いて全部准訓導であった。この試験では次の伺いにあるように再任されない者もあった。
 
  先般逐試験候処小学教員タルノ学力ヲ有セス或ハ病ニ托シテ不出頭及ヒ区内ヨリ申出ノ筋モ有之到底不適任ノ者ニ付今般各校教員一旦御廃止ノ際再任不相成候様致度(略)
 

[図5] 港区地域の公立小学校教員移動表〔明治10年における一等授業生以上の者〕

 
 一等授業生以上の幹部教員人事が終ってから、二等授業生以下の教員を発令した。しかし港区地域での資料はまだみつかっていない。
 明治10年以降は明治10年における「南山小学校の教員構成と給料表」(後出の[図10])に見るように、港区地域の公立小学校は、その構成を確立していったようである。桜田・桜田女子の両小学校は、東京府の模範となるべく東京府師範学校教員の須田要が校長となって兼務し、赤坂小学校は師範学校卒業の岡田元熙が就任しているが、それでも訓導は数えるほどでほとんどが准訓導であった。
 [図5]の「港区地域教員移動表」でわかるように、主宰者(校長職)として港区地域の教育実践に活躍していったのは、明治初期の区学校や、設立時の中堅として教育にたずさわった人たちであった。
 
関連資料:【文書】教職員 南海小学校教員の履歴
関連資料:【文書】教職員 南海小学校教員の辞職と復職
関連資料:【文書】教職員 明治初年の教員待遇