初小学設立ノ際教員ヲ上中下訓導上下授業生ノ五等ニ分チ上等訓導ハ習字算数読書三科ノ教授ヲ兼ネ中等訓導ハ其二科ヲ兼ネ下等訓導ハ其一科ヲ教授シ上下授業生ハ其教授ヲ補助ス
これは、文部省直轄の小学校が「文部省小学訓導」1名と、それまで句読授(くとうじゅ)といわれた「文部省小学授業生」数名から成立していたことの発展と思われる。この時の教員は「府県ニテ教官相勤メシモノ或ハ有名ノ者」を訓導にして、「其他習字指南・洋算書生等試験ノ上」授業生に採用する方針であった。
学制当初は、名称・等級・給料は各府県ごとにまちまちであったので、明治6年8月に小学校教員の等級をあらためて一等から五等までとし、その給料の基準を、訓導は「五等月給三十円以下十円マテヲ与フ」と定めた。そして、「師範学校卒業生派出規則」を次のように布達し、初任給のときから訓導に任じられるようにした。
教員ノ等級及月給ヲ定ムルハ地方官ノ適宜タルヘシト雖(イエド)モ下等小学科卒業生ハ最初五等訓導上等小学科卒業生ハ最初三等訓導ニ補シ順次昇等セシムルヲ法トス(第7条)
ところで、全国的にみると教員の給与は3、4円が大部分であり極めて低かった(倉沢剛著『小学校の歴史』1)。その上文部省の補助金の額も少なく、明治8年には公立小学校の月俸については府県の実際にまかせることになった。岩手県の一等教師の月俸が6円であることから、[図6][図7][図8]のように東京府の教員の給与はめぐまれていたといえる。
明治10年に実施した教員試験は、給与の面でも厳しいものであった。前掲[図5]港区地域教員移動表の明治10年欄でわかるように、ほとんどが減給となった。
[図6] 明治6年教員給料(『文部省第一年報』第一大学区 東京府)
[図7] 明治8年教員給料(『文部省第三年報』所収「東京府年報」)
[図8] 明治10年教員月俸(東京都公文書館所蔵資料より作成)
[図9]のように原給に止まったのは、師範学校卒業生であった山田景敏ただ1名だけであった。
[図10]は、南山小学校の学校沿革誌による、教員構成と給料である。当初4名が7名となり、10名となった。主宰者(「教頭」と記載されている)山田景敏の後任として、杉浦守約が補されている。また裁縫専科として上原カツが採用された。
幹部教員の五等准訓導以外は全部六等准訓導であり、新任者の月給は5円であった。この表により、当時の港区地域にあった公立小学校の教員構成と、待遇を類推してよいと思われる[注釈4]。
[図9] 明治10年教員試験実施後の給与(倉沢剛著『小学校の歴史』)
[図10] 明治10年における南山小学校の教員構成と給料
関連資料:【文書】教職員 明治初年の教員待遇