公立学校の教員組織と待遇

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 明治9年(1876)12月誕生の第二七番公立小学南山学校は、「学制」末期から「教育令」以降にわたる教員の動きを学校沿革誌に克明に記録している。そこで、ここでは、この南山学校の記録を基にして述べていくが、港区地域の小学校教員の実態は、恐らくこれに似ていたものと思われる[注釈5]。
 「学制」の末期から「教育令」期にかけては、督励干渉の教育政策から、自由化政策に転じてきており、これに伴って教員政策もまた自由化の方向を強めている。
 先ず目につくことは、教員任用における「結約(けつやく)」という契約制の導入である[図11][図12]。「学制」期の教員任用は、学区取締の具申に基づいて府知事が任命したが、「教育令」発布とともに、校務委員・戸長と教員とで結約をし、府の認可を得て、その学校の教員として採用することになった。この時の経過を南山小学校の沿革誌は次のように記している。
 
  明治十一年八月十九日 派出教員星合徳蔵ノ件ニ付戸長ヨリ上申ス此時ニ当リ凡ソ小学校ニ於テ教員ヲ要スルヤ多クハ之ヲ府庁ニ申込ム而シテ府庁ニ於テハ相当ノ人物ヲ見ルヤ先ツ之ヲ其校ニ送リ仮ニ授業ヲ執ラシム之ヲ派出教員ト云フ而シテ十五日ヲ経テ首座教員(方今ノ校長)ハ其認定スル所ノ資格ヲ上申シ遂ニ其校ノ教員ニ任命スル習慣タリ
  明治十二年五月十六日 校務委員根本喜兵衛柴田清右衛門連署シテ本年五月ヨリ十二月ニ至ルマテ杉浦守約以下十名ノ教員傭人結約ノ認可ヲ乞フ即チ杉浦守約佐々木(生沢)従吉青山盈教小柳重松稲垣稲蔵寺島規加藤浦規清渋谷賢次郎伊藤錠次郎上原カツ是レナリ蓋シ其俸給額ノ如キハ一ニ此際ノ結約ニヨルモノノ如シ
  明治十二年五月廿六日 学務課長一等属銀林綱男ニヨリテ教員傭入結約ヲ認可セラル
 

[図11] 教員「結約」認可状の下付伺


[図12] 教員の「結約」上申書

 明治10年から11年にかけて、「生徒漸時増加スルヲ以テ六等准訓導(クンドウ)壱名ノ附与ヲ乞フ」「五等准訓導壱名ヲ学務課ニ乞フ」とか「伊藤錠次郎派出セラル」の記録が、児童増や教員転出時に載せてある。前掲の南山学校の教員構成に見合った要請となっていることから、当時の標準構成であったと思われる。なお、裁縫の専科教員と、習字専門の傭教員が明治10年にはみえていることから、裁縫の専科がこの時期一般化し、また学校の実情において、専門の教師を助教として校費で採用していたことが、港区地域の公立小学校にはあったと思われる。
 「教育令」は明治12年9月に公布されたが、南山学校の記録では、結約が行なわれたのが明治12年5月であり、この契約制は「教育令」に先がけて実施されていた。契約制といっても、校務委員は府に「結約ノ認可ヲ乞」い、学務課長の認可を経て成立する契約であり、また「校務委員(氏名略)学務委員(氏名略)連署シテ大関正満期解約ヲ上申ス」とあって、校務委員の事務手続きを経た東京府との契約であった。このことは、給料面でも表われており、南山学校の場合、最初の結約では大部分が一等級上がっており、また明治13年の結約では、5月の上申に対して、8月に1円増俸となって認可されている。したがって待遇の面でも、不利な結果とはなっていなかった[図13]。
 

[図13] 南山学校の「結約」継続書

 明治13年の『文部省第八年報』所収の「東京府年報」は、「教員委嘱ノ事」として次のように報じている。
 
  教員ヲ委嘱セント欲スルトキハ其姓名属籍年齢履歴給料及ヒ結約期限等ヲ詳記シ府庁ノ認可ヲ受ク可シ満期ノ後尚引続キ委嘱セントスルトキハ更ニ給料及ヒ結約期限ヲ記載シ開申スヘシ、府庁ニ於テハ其学術ヲ試験シ合格ノ者ハ尚実地ノ授業ヲ審査セン為メ大凡一ヶ月間仮ニ其校ニ従事セシメ然ル後認可状ヲ交付シ結約ヲ許ス
 
 そして、仮教員(南山小の派出教員)は、尋常(じんじょう)科相当の者は7円、簡易科相当は5円、裁縫教員は3円の給料としてあり、師範(しはん)学校卒業生や適当と認められた者は「試験ヲ経スシデ直チニ認可状ヲ交付シ結約ヲ許ス」ことにしてあった。
 
  明治十三年五月十二日 校務委員(氏名略)連署シテ(教員氏名・月俸略)引続結約ノ認可ヲ乞フ
  明治十三年十二月十日 校務委員(氏名略)連署教員結約引続認可ヲ請フ其俸給左ノ如シ(教員氏名・月俸略)(『南山学校沿革誌』)
 
とあるように、5月・12月の半年毎に「結約」を継続しており、明治15年3月に、「梅田寛東京師範学校卒業生ヲ月給十二円ニ結約シ認可状ヲ乞フ」とあるのが最後の記録である。
 
関連資料:【文書】教職員 教員の結約と解約