明治初年の幼児教育は、家庭教育が中心で、寺子屋と「学制」以前に発足した幼童所や区(郷(ごう))学校などに、一部の幼児が学習生活をしていたに過ぎなかった。「学制」の中では、幼児のための教育について次のようにふれている。
第二十一章 小学校ハ教育ノ初級ニシテ人民一般必ス学ハスンハアルヘカラサルモノトス之ヲ区分スルハ左ノ数種ニ別ツヘシ然トモ均(ヒトシ)ク之ヲ小学ト称ス即チ尋常小学女児小学村落小学貧人小学小学私塾幼稚小学ナリ
第二十二章 幼稚小学ハ男女ノ子弟六歳迄ノモノ小学ニ入ル前ノ端緒(タンチョ)ヲ教フルナリ
この幼稚小学は、「フランス学制」の中にある「育幼院」を模したものと考えられる。
育幼院ハ男女共満六歳マテノ小児ヲ人ラシメ慈母ノ如ク之ヲ撫(ブ)育シ年齢ニ相当ナル教ヲ授ケテ敢(アエ)テ謝物ヲ要セス此院ニ於テハ必ス奉教ノ道徳法書法ノ端緒(タンチョ)ヲ開キ導キ数学ヲ口授シ傍ラ勧善ノ歌ヲ教へ針線及手業ヲ教フ
ここでは、6歳以下の小児のための目的や、その指導内容に至るまでが示されており、この項を受けての第22章であった。これら「学制」における幼稚小学の規定は、我が国初の幼児教育に関する法規として、また、その後の幼稚園教育が、学校教育の一環としての位置づけを確立するに至る発端ともなった点では、たいへん意義深いものであった。
しかし、「学制」に条文化されたにもかかわらず、幼稚小学はその実現をみなかった。「学制」に示された条文が空文に終わったものの、幼児教育施設の設置は着々と準備されていった。文部省三等出仕田中不二磨名で、明治6年(1873)10月7日に各府県宛に次の布達が出されている。
幼童家庭ノ教育ヲ助ル為メニ今般当省ニ於テ各種ノ絵画玩具ヲ製造セシメ之ヲ以テ幼稚坐臥ノ際遊戯ノ具ニ換ヘハ他日小学就業ノ階梯(カイテイ)トモ相成其功少カラサルヘク依テ即今刻成ノ画四十七種製造ノ器二品ヲ班布(ハンプ)ス此余猶漸次製造ニ及フヘク入用ノ向モ之レアラハ当省製本所ニ於テ払下候条此旨布達僕事(『東京府史』第5巻 行政篇)