幼稚園の創設

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 田中不二磨の努力はすぐには実を結ばなかったが、彼の女子教育の重視、幼児教育の育成の志は、女子師範(しはん)学校の設置と、そこへの幼稚園付設の運動となって表われた。
 明治8年7月、文部大輔田中不二磨は、太政(だじょう)大臣三條実美宛に、幼稚園設立について伺いをたてている。この伺書は、いったんは却下されたものの、再度提出した伺書により文部省から設立許可の布達を得ることができ、翌9年11月16日、日本で最初の幼稚園である、東京女子師範学校附属幼稚園が創設された。
 我が国の幼稚園教育はここから始まったとされている。
 附属幼稚園での園児の定員は、150人とされていたが、開園当初は75人ほどの園児で出発している。その保育には、監事(園長・関信三)主席保母1名(松野クララ)保母2名(豊田芙雄、近藤濱)助手2名であたった。 教育の目的は、規則第1条によって次のように定められている。
 
  幼稚園開設ノ主旨ハ学齢未満ノ小児ヲシテ天賦ノ知覚ヲ開達シ固有ノ心思ヲ啓発シ身体ノ健全ヲ滋補シ交際ノ情誼(ギ)ヲ暁知(ギョウチ)シ善良ノ言行ヲ慣熟セシムルニ在リ
 
 入園の年齢を、男女児とも満3歳以上から満6歳の小学校に就学するまでの者としているが、場合によっては、「時宜ニ由リ満二年以上ノモノ」「六年以上ニ出ルモノ」の在園も認めている。
 保育料は、1カ月金25銭としているが、それを収められない者は申出ること、とされた。
 保育内容は、物品科、美麗(びれい)科、知識科の3科を設けており、その中に五彩球の遊びなど25の子目が含まれている。その大半がフレーベル[注釈1]の恩物(おんぶつ)としての20遊戯であった。これは、明治10年の幼稚園規則に制定されていった(第2項(1)306~310ページの「私立共立幼稚園第二分園開業願」参照)。
 これらのことは、園長である関信三が、フレーベルの『幼稚園記』の翻訳者であること、また、首席保母の松野クララがドイツ人であり、フレーベルの保育法の実践者であったことから、おのずから定まっていったものである。
 当時の指導案から保育の実際をみると次のようである。
 
  登園、整列、遊嬉(ゆうき)室―唱歌 開誘(かいゆう)室―修身話か庶物語(談話あるいは博物理解) 戸外あそび、整列 開誘室―恩物―積木 遊戯室―遊戯か体操 昼食、戸外あそび、開誘室―恩物、帰宅
 
 それぞれに、20分から50分ほどの時間をあて、毎日繰り返して指導していた。