「学制」以降の規則

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 明治13年12月、制定の「教育令」改正に幼稚園の設置、廃止についての規用が定められ、同14年、「府県立学校幼稚園書籍館等設置廃止規則」として明らかにされた。
 それには、府県立の幼稚園の設置に際して、「設置目的、位置、保育ノ課程、入園退園ノ規則休日等、保母等職務心得及其人員俸額、敷地、建物ノ略図坪数等、経費収入支出及其細目、名称保育用器具等、幼稚概数保母学力及履歴」の11項目について、監督官庁に伺出、または開申すべきことを明記している。
 

[図1] 町村立私立学校・幼稚園・書籍館設置廃止規則(東京都公文書館所蔵)

 府県立以外の場合については、「町村立私立学校幼稚園書籍館等設置、廃止規則起草心得」によるものとされた。東京府では、これに基づいて、[図1]のとおり布達を出している。
 私立の場合もこれに準ずるものとして、第2章に「私立学校幼稚園図書館」の認可について定め、認可願の記載事項を公立と同様に示している。
 東京女子師範学校附属幼稚園の設立は、その後の幼稚園教育の開発に多大な影響を及ぼし、明治15年までに東京府に3、大阪府に2、宮城県に1、鹿児島県に1の7園が設立された。しかしながら園の新設にあたっては、女子師範学校附属幼稚園の施設設備を見ならうととらえられ、そのための費用が多くかかりすぎることから、各府県における幼稚園の普及が遅れがちであった。
 文部卿代理九鬼隆一は、明治15年12月に各府県学務課長及び学校長に対して、幼稚園の編制を簡易にし、多くの幼児が入園できるようにするよう次のように示諭した。これには保育所的な考えも併せふくまれている。
 
  幼稚園ノ編制ニ就テ更ニ一言スヘキモノアリ文部省直轄ノ幼稚園ハ努メテ園制ノ完全ナランコトヲ期シ而シテ地方ニ於テ設ケル所ノモノモ概ネ之ニ模倣スルヲ以テ規模頗ル大ナレハ人ヲシテ都会ノ地ニ非サレハ之ヲ設クルコト能ハス又富豪ノ子ニ非サレハ之ニ入ルコト能ハサルノ感アラシム然レトモ幼稚園ニハ又別種ノモノアリ都鄙(トヒ)ヲ論セス均シク之ヲ設置シ貧民カ役者等ノ児童ニシテ父母其養育ヲ顧ミルニ暇アラサルモノ皆之ニ入ルコトヲ得ヘキモノトス此種ノ幼稚園ニ在テハ編成ヲ簡易ニシテ唯善ク幼児ヲ看護保育スルニ堪フル保母ヲ得テ平穏ノ遊戯ヲナサシムルヲ得ハ即チ可ナリ
  是レ尚ホ群児街頭ニ危険鄙猥(ヒワイ)ノ遊戯ヲナスルモノニ比スレハ大ニ勝ル所アリ其父母モ亦係累ヲ免レ生産ヲ営ム便ヲ得テ其益蓋(ケダ)シ少小ナラサルヘキナリ
 
 東京では、東京女子師範学校附属幼稚園についで、明治13年最初の私立幼稚園が麹町区に、桜井女学校の附属として設立された。
 これは、キリスト教主義教育による園であり、約25名の園児に保母2名が保育にあたった。保育内容は、女子師範学校附属幼稚園の保育科目に準じている。
 当時の東京の幼稚園の現況については、『文部省年報』所収の「東京府年報」に次のようにあげられている。
 
  府下幼稚園二アリ一ハ公立ニシテ一ハ私立ナリ両園設置ノ目的ハ学齢未満ノ幼稚ヲシテ天賦ノ知覚ヲ啓蒙シ善良ノ慣習ヲ冊セシムルニアリ其公立ニ係ルモノハ本所区公立江東女子小学校附属ニシテ明治十四年十月十八日始テ同校内ニ併設シタルモノ是ナリ其方法細目ハ実施ノ上更ニ確定スヘキコトゝ為シ現今ハ単ニ東京女子師範学校附属幼稚園ノ規定ニ模倣シ保育法ハ修身話、庶物話、玩器用法、読方、書、画、唱歌、遊嬉ノハ課トス保母一名幼児十三名アリ内十一名ハ男ニシテ二名ハ女ナリ其私立ニ係ルモノハ麹町区中六番町ニアル桜井チカノ設置スルモノ是ナリ此ノ園ハ明治十三年四月一日ノ創始ニシテ保育法ハ物品科、美麗科、知識科及ヒ五十音、計数、唱歌、単語図、読話、体操ナリ保母一名幼児十名内男四名女六名ニシテ前年ノ実況ト大異ナキニ似タリ(明治14年)
  本年中私立幼稚園ノ設置スルモノ三即チ牛込区市谷薬王寺前町共立幼稚園四谷区麹町十二丁目同第一分園赤坂区氷川町同第二分園是ナリ而シテ本年ニ於テハ其設置ヲ許可セシ迄ニシテ未ダ開業ノ運ヒニ至ラサルヲ以テ別ニ述フヘキノ事項ナシ前年々報ニ掲クル所ノ本所区公立江東小学校附属幼稚園ハ保母一名幼児男四名女三名ニシテ麹町区私立桜井女学校附属幼稚園ハ保母一名幼児男三名女十二名ナリ其状況前年ト大異ナキニ似タリ然レ共一般人心ノ向フ所漸次該園ノ増加ヲ顧ルニ至ルヘキノ状況ナシトセス (明治16年)
 
 明治16年までに設立された幼稚園は[図2]の5園であった。
 

[図2] 設立された幼稚園(『明治十六年学事年報』東京府学務課)

 また、この時期、幼児教育への関心の高まりから就学年齢に至らぬ幼児を、小学校に入学させる風潮が出はじめたことを制するために、文部省から明治17年に各府県に達しが出された。東京府でもそれを受け、同年2月に達しを出している(明治17年『東京府令達全書』)。
 
  学齢未満ノ幼児ヲ学校ニ入レ学齢児童ト同一ノ教育ヲ受ケシムルハ其害不尠候条右幼児ハ幼稚園ノ方法ニ因リ保育候様取計フヘシ此旨相達候事
   明治十七年二月廿八日
           東京府知事   芳川 顕正
 
 南山学校の学校沿革誌には次のように記載されている。
 
  明治十七年二月廿八日 府知事芳川顕正ヨリ学齢未満ノ児童ハ学齢児童ト同一ニ教育スルノ甚害ナルヲ以テ幼稚園教育ノ法ニヨルヘキコトヲ論示セラル
 
 その実態は、記録されていないが、前年の明治16年の記録には、「性敏達齢未タ六歳ニ至ラサルモ初等科二級(現在の2年生相当)ニ進ミ同級生ト頡頏(キッコウ)ス」と、優等生上申の表の中にあるところから、港区地域にも実際には成績の秀でた学齢未満の児童のいたことが知られる。
 このような幼稚園設立の動きなどにより、明治18年には、宮城・福島・茨城・群馬・東京・石川・大阪・島根・岡山・徳島・高知・鹿児島の12府県に幼稚園の設置が見られるまでに広まった。