このような達しが出された明治17年に、芝麻布共立幼稚園が芝公園に設置され、保育の効果を明らかにした[注釈2]。
[図5] 芝麻布共立幼稚園設置願(東京都公文書館所蔵)
その目的は、学齢未満の児童を就園させ、身体の健康保持、天賦の才美の養成、善良な言行の慣熟などを得させた後に、小学校に入学させるというもので、前年度に設置願が出された共立幼稚園第二分園の目的には見られない、「~後来小学校ニ入ルノ楷梯~」の1項が加わっている。これは、明治17年2月の達しを受けての設置であることをうかがわせている。
芝麻布共立幼稚園の設置願及び保育課程については、その資料が数多く残されており、ここから、当時の幼児教育の目的・内容・教材・保育方法などの一端をうかがい知ることができる。
保育時間は、午前9時30分より終業2時までの4時間30分をあて、うち1時間は休息としている。夏季は、6月16日より9月15日までを午前8時30分から正午までとし、短縮保育としている。これは、現在の保育時間とほぼ同様である。
保育料は、月額1円としているが、当時の私立幼稚園である桜井女学校附属幼稚園や共立幼稚園と同額である。ちなみに、当時既に設置されていた江東区の公立幼稚園における保育料は、月額25銭から50銭以下となっていた。
幼児の定員は、100名として願い出ているが、幼児教育への関心の高まりから、希望者を全員受け入れることができなかったもようで、4年後の明治21年10月30日に「幼童増員御届」を出し150名まで増やしている。
この園における出願人、富田鉄之助、子安峻、山東直砥にはそれぞれの履歴書が残されている。3人とも、実力者であり社会的な功労の大きい人物であった。
富田鉄之助は当時は日本銀行副総裁の地位にあったが、その後、総裁となり、明治24年には12代東京府知事の役職をつとめている。この園の設置ばかりでなく現一橋大学の前身である商法講習所創設に力を貸したり、仙台に同志社分校をたてるなど、教育に対しての理解が深かった。子安峻も政府高官を経て、読売新聞社の初代社長となり、山東直砥も神奈川県大参事をつとめた人物である。
また、この園の園長兼保母に近藤濱の名が見られる。女子師範学校附属幼稚園での保母の実績がかわれ、共立幼稚園の設置にも名を連ねているが、この園では、実際に保育にあたっていたもようである。当時の履歴書からその様子をうかがい知ることができる。
園長兼保母履歴書
和歌 村田春野就業
英学 ジョンジェームス就業
洋算 河合鏻蔵就業
漢籍 松山章就業
右就学仕候
明治八年十月
東京女子師範学校創設ヨリ舎長拝命
明治九年九月
東京女子師範学校附属幼稚園創設ヨリ幼稚園教師拝命
明治十四年十月
辞職仕候也
明治十七年九月 東京府神田区神田松住町拾番地
東京平民 近藤 濱 ㊞
芝麻布共立幼稚園の保育課程表[図6]が原文のまま保存されているが、当時の保育内容を知る上では大変貴重な資料といえよう。ここでの実際は、女子師範学校附属幼稚園が行った保育内容の影響を強く受けている。その主な内容は、フレーベルの「二十遊嬉(ゆうき)」(恩物(おんぶつ))を中心としたものからなり、それに「計数」「博物理解」「唱歌」「説話」「体操」「遊嬉」などが加えられていた。
開誘(かいゆう)というのは、現在の保育にあたる語であり、芝麻布共立幼稚園における保育内容も、ほぼ同様のものとなっている。第1年幼稚生は3歳児、第2年が4歳児、第3年が5歳児を意味している。恩物というのは、フレーベルが考えた幼児用の教具であり 、フレーベルはそれを幼児の創造性を育てるために神からさずけられた物と考えていた。恩物は20種類あり、いずれも個々の幼児が恩物机にむかい、それぞれの方法にしたがって遊びながら、学んでいくものであった。当時は恩物が入手困難であったため、園によっては、そろえられる物で保育を行う場合も多かったようである[図7]。
[図6] 幼稚園保育課程表・芝麻布共立幼稚園(東京都公文書館所蔵)
[図7] 恩物
前の保育課程表によると保育の方法・内容や図書器具など、発足期としては周到な準備のもとに、すぐれた保育活動が開始されていたものと思われる[図8]。
[図8] 保育用図書器具表・芝麻布共立幼稚園(東京都公文書館所蔵)