産業を興して国を富ませ、国民生活を向上させようとする明治政府は、産業や教育の奨励を重要方針としていたが、教育の面では、基礎教育の普及・充実が急務であり、産業教育の制度化はおくれてはじまった。明治5年(1872)の「学制」においても産業教育に着目していたが、そこでは、中等・高等教育段階における実業教育(第2次大戦後産業教育と改称)の方策のみで、しかも制度化は明治10年代の後半までおくれ、それも農・商・工業などの指導者養成から始めようとしたのである。
明治5年4月、芝の増上寺内に開校した開拓使仮学校は、明治8年札幌に移転して札幌農学校となったが、これが、農業教育の着手であった。
商業教育では、明治7年、大蔵省内の銀行学局が端緒を開き、同8年森有礼の商法講習所の創設によって、洋式の商業教育が始まり、同18年文部省に移管されて、東京高等商業学校へと発展した。
工業教育では、明治7年、東京開成学校内に製作学教場が設置され、これが同14年に東京職工学校の創立となった。また、明治6年工部省工学寮の工学校が学生を募集、同10年には、工学寮は工部大学校となった。
明治13年の「教育令」改正では、農学校、商業学校、職工学校の名称は示したが、制度や方策に具体的なものは示されていない。これらは中等教育段階の学校で「農学校ハ農耕ノ学業」「商業学校ハ商売ノ学業」「職工学校ハ百工職芸」をおのおの授ける所と示された。
明治16年4月に文部省は、「農学校通則」、同17年1月に「商業学校通則」を公布し、はじめて実業学校の制度化に着手したのである。しかし工業関係については、明治後期になってからであり、明治10年代の前半には、中学校以外の中等教育機関は制度化するまでには至らなかった。
その間、商工業地域をもつ港区地域では、商業夜学校や庶民夜学校での商業・工業2科の教育、小学校での裁縫科の設置、高等小学校での農業・工業・商業のうちから地域や学校の選択による教育など、実業教育(産業教育)への芽生えがあった。
工業・商業の発展しつつあった港区地域では、学齢児でも実業へつく志向は強く、そのために中途で退学する者が多かった。こうした情況の中で、明治10年代の庶民夜学校や高等小学校における実業科は、当時の実情に合ったものにもなっていたと考えられる。そのころ、実業的な私立学校が設立されてきていた。