政治都市として発足した江戸は、武士・商人・職人の町であり、消費都市でもあった。新鮮さを求める「野菜栽培」は、当時から重要なものであり、駒込なす・練馬大根・目黒のたけのこや江東砂村でのなす・きゅうり栽培などが盛んであったことが知られているように、東京となっても野菜の生産が高いことは、その消費都市の性格は変わっていないことのあらわれであろう(『東京百年史』)。
それに対して大きく変貌(へんぼう)していったのは、工産物の生産であった。この工産物生産の中でも、異常に高い比率を示したのが「雑貨手芸品」である。そしてその生産は、日本橋・神田・京橋・芝・浅草の地域であって、日本橋の横山町・本材木町・大伝馬町などの地域が中心となっていたと『東京百年史』で述べている。
また、同史によると、明治維新による文明開化の影響は、東京を中心に進められた欧米模倣の政府の政策により、輸入商品にならった新商品の生産という形になって現われた。明治7年の『府県物産表』によれば、「下駄・戸・簞笥(たんす)・障子(しょうじ)」などの林産物加工の日用品に比べ、「衣服・鼻緒(はなお)・洋服・足袋(たび)」という雑貨手芸品は、工産物生産の約50パーセントを占めており、なかでも洋服・人力車・靴などの生産額の割合が多く、洋服は芝・麻布、人力車は銀座で、靴は日本橋・浅草でという特定地に集中し、輸入商品にならった模造品として生産が始まったという[図1]。
明治5年の『東京府志料』によると、芝の宇田川町と愛宕下町での洋服生産が特に大きいことを掲載しているが、これは生活様式が欧風化することにより生じた需要にこたえたものである。また明治20年ころになると芝の愛宕下町・烏森町・田村町において、外人の家具修理から洋家具製造の胎動が始まり、発展していったと『新修港区史』は記している。
明治10年代末期から20年代前半にかけて、鉄道と紡績業を中心にして産業発展が推進され、芝浦を中心とする芝区の工場地帯形成の芽が出てきた。金杉新浜町の芝浦製作所、新堀町の国友工場、麻布本村町の東京製鋼、本芝入横町の池貝鉄工などである。
これらは、伝統的な在来の技術を新たな資本制生産の技術体系に対応させながら、その技術を生かしていった職人層の働きがあったからである。しかしこれら職人層は、資本主義経済の発展の過程で、賃金労働者へと転化せざるを得ず、港区地域の職人の没落は決定的な様相を示したという。しかし、衰退していく手工業のなかでも、家具・印刷などは家内制工業として存続していった。
[図1] 東京府における「雑貨手芸品」の生産地分布図・明治5年
(注)1 「東京府志料」より作成
2 地図は『(官版)実測東京全図』、(明治11年・地理局発行)を基礎として、参考までに当時の東京15区の境界を記入した