明治初期の産業(実業)教育は、高等教育から制度化が着手され中等教育程度はおくれて発達した。それは、実業方面の新知識を有する高級人材の養成を先決問題とした国情から止むを得ないものがあった(『学制百年史』)。
「教育令」での各種学校は、初歩的な小学校課程から理科系の専門教育機関までが含まれ、専門学校や大学の萌芽ともみられるものもあった。港区地域の実業教育は、官立に先がけて、私立の各種学校によって発足している。
農学教育では、開拓使仮学校に少しおくれて、明治8年、麻布に学農社学校が津田仙により開設された。耕圃(こうほ)学・森林学・植物生理学・家畜学・農用化学・農用器械学・農業経済学等の専門教育が行なわれ、麻布本村町に学農園を設け『農業雑誌』の発行とともに、農具や種苗の製造・生産販売を行った。
水産学教育では、明治20年に藤川三渓によって「専ラ水産ノ学ヲ講シ漁法ヲ改良スルモノトス」という目的で、芝区公園地9号に「水産学校」が設立された。明治21年に麻布区三河台町16番地に移り私立大日本水産学校となったが、5カ月で廃校になり大阪で再び設立されたという(都史紀要『東京の理科系大学』)。
畜産学教育では、東京帝国大学農科大学となった東京農林学校が、明治23年獣医科を芝区三田1丁目にあった三田育種場(種産場)に分設したが、駒場に移されるときにそれに反対した責任者が野に下り東京家畜病院を設け、翌年に東京獣医講習所を開いた。明治27年に麻布区新堀町に移り麻布獣医学校と改名した。第2次大戦後、相模原市で麻布獣医科大学に昇格している(都史紀要『東京の理科系大学』)。
生産様式の近代化のため工業技術教育は、何よりも必要とされていたが、政府直轄の製糸所、紡績所などの開設を欧米の力を借りて急いだ割合には、工業技術の初歩的な教育態勢は進まなかったようである。港区地域では、近代工場の設立に対しての教育機関は設けられていなかった。それらの経過が、明治20年、京橋区木挽町に設立された工手学校(現工学院大学の前身)の設置目的の中にみられる。
現今我国諸工業追々隆盛ニ至リ技術者ヲ要スルコト頗(スコブ)ル多シ而ルニ我国技術者養成ノ学塾甚タ尠(スクナ)ク一二官立ノ学校ニ於テハ高尚ナル技術ヲ養成スルニ充分ナルモ技師ノ補助タルヘキ工手ヲ養成スル学校ニ至リテハ殆ント一校ノ設置ナキカ如シ為ニ工業家ニ於テハ工手ノ供給ナキニ等シ勢ヒ工手ノ仕事ヲ技師ニ依托セサルヲ得ス故ヲ以テ技師ハ仕事ノ竣工ニ遅滞ヲ来シ其結局工業家ノ不利益ニ残スルモノニテ取モ直サス我国工業ノ進歩ニ一大障害ヲ与フルモノト云フヘシ
東京大学工学部の前身でもある工部大学校が、明治10年に高度な工業技術の教育機関として置かれ、工業技術の指導者養成に努めていたのに対して、実際の仕事にたずさわる技術者養成のための学校設立はおくれていたようである。
手芸・裁縫の女子教育は、明治19年以降の女子教育開花期(都史紀要『東京の女子教育』)になって続々と学校が設立された。芝・麻布地域の洋服製造業とのかかわり合いは明らかではないが、港区地域にも多く創設されている(第7節第2項(2)374ページ「手芸・裁縫の女学校」参照)。芝公園地に設立された東京女子手芸学校の設置目的には次のように記している。
本校ハ女子ニ主トシテ和洋裁縫編物刺繍(シシュウ)等ノ手芸ヲ授ケ以テ女子ニ相応ナル職業ヲ得セシムルヲ以テ目的トス傍ラ普通学ヲ授ク
これによって女子の職業教育をめざしていることが知られる。
商業教育では、明治12年になって記簿法学舎(芝区明船町と赤坂区青山北町)、翌13年に簿記学舎(芝区田村町)、14年には簿記学舎(芝区愛宕町1丁目と4丁目、芝区新銭座町、麻布区三河台町)が設立されている。大蔵省銀行課銀行学伝習所で諸記簿法の修業をした教員(校主)によって届けられているが、学習内容の詳細は不明である。商業も近代化していくなかで、実務に必要な商業教育が盛んになってきたといえる。この時期における実務的な実業教育は、商業に限らず、私立学校が先行していたのである。
関連資料:【文書】私立・諸学校 水産学校
関連資料:【文書】私立・諸学校 麻布獣医学校