夜学校の教則[図2]

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 明治10年(1877)1月、東京府は公立の「商業夜学校開設規則」を制定した。
 

[図2] 商業夜学校則・教則(東京都公文書館所蔵)

 
  商業夜学校学則摘要
  本校ハ商業ヲ営ント欲スル者ニシテ昼間習業ニ暇ナキ者及昼間習業ノ者ト雖(イエド)モ猶(ナオ)修学セント欲スル者ニ商業学科ノ端緒ヲ教授スル所ナリ但学校ハ当分公立小学校ヲ仮用シ各所ニ開設ス故ニ校数ハ便宜ニヨリ臨時増減スルコトアルヘシ 科程ヲ分テ大人童子ノ二科トナス童子科ハ十歳ヨリ十四歳迄大人科ハ大凡十五歳以上ノ者ヲ入学セシメ二科各在学一ヶ年トス但学力ノ優劣ニヨリテハ本条ニ拘ハラス二科ノ内ニ編入スヘシ 大人童子ノ二科各前後二期ニ分ケ毎期六ヶ月ノ習業ト定ム但学術ノ進否ニヨリ斟酌(シンシャク)増減スルコトアルヘシ 前期卒業ノ者ハ後期ニ移リ童子科卒業ノ者ハ大人科ニ入ラシムト雖モ其重複スルモノハ之ヲ略シ他ノ課ヲ以テ之ヲ補フモノトス(『東京府年報』)
 
 明治12年になって商業夜学校は庶民夜学校に発展し、商業に加えて工業科を増した。教則には「昼間習業スル暇アル者ハ入学スルヲ許サス」とあり、また「入学ヲ乞フ者ハ父母或ハ傭主ヨリ本校へ願出スヘシ」となり、童子科がなくなった[図3]。
 明治5年に公布された「学制」では、実業(産業)教育について次のように示している。
 
  第二十九章 中学ハ小学ヲ経タル生徒ニ普通ノ学科ヲ教ル所ナリ分テ上下二等トス二等ノ外工業学校商業学校通弁学校農業学校諸民学校アリ(略)
 
 「学制」による実業教育は、小学校卒業者による中等教育として考えられていたが、実情は小学教育の就学率向上と、教育内容の充実に大部分の力を注いでいたため、東京府における公立の中等学校は、明治20年までは東京府尋常(じんじょう)中学校ただ1校のみであった。
 東京府における商業教育は、明治8年に創設された一橋大学の前身である商業講習所から始まっており、明治12年に15区に1校づつ設立された庶民夜学校と、その前身の商業夜学校(桜田学校に設置)は、不就学児の救済と、既に職業についている者への職業適応に直接役立つ、初等教育の域を出ていないものであった(第3節第2項219ページの「不就学児・就学困難児とその対策」参照)。
 

[図3] 庶民夜学校開設上申書(東京都公文書館所蔵)