明治2年(1869)蝦夷(えぞ)地開拓の件が審議され、北海道開拓の政府機関として開拓使が設置された。
明治4年に東京出張所が芝増上寺内方丈跡に設けられ、青山に官園が3カ所設置された。この時、開拓使官園附属の学校として開拓使仮学校が、明治5年4月に同じ芝増寺内方丈跡に開設された。これは北海道開拓に必要な中堅的人物を養成するためのもので、官費・私費の生徒各50名を入学させ、農業教育の基礎課目ばかりでなく、化学・地質学・英語・数学など一般教養と専門教育とを教え、また留学生を派遣するなどスケールの大きなものであった。
次いで9月には、この仮学校に女学校を附設した。これは女学校卒業後、北海道で開拓事業に従事する者の配偶者として、開拓に協力する花嫁を養成する目的であった。12歳から16歳までを原則とし、主に北海道居住者から適格者をあつめ、オランダ人の女教師を招いて語学・算術・地理・歴史・手芸などを教えた。
開拓使仮学校は、明治6年3月、一旦閉校して組織更新し開拓使学校となった。そして明治8年北海道に移され札幌農学校となり、今日の北海道大学の前身となった。また、開拓使女学校は明治9年5月に廃校となっている。短期間であったが、産業教育発祥の意義は深い。