商工業地域や耕地も多かった港区地域では、私立学校を中心に産業教育が始まっていたことは、さきに概説したとおりである。ここでは更にそれらのうち、各学校の教育内容の概要に触れ、初期の産業教育の実態をうかがうこととする。一部実業的内容を含む学校も、ここで取り上げる。
■学農社[注釈3]
学農社は、英学塾である福澤諭吉の慶応義塾(後述)、中村正直の同人社、尺振八の共立学舎とともに、当時府下における四大私立学校といわれ(『津田仙翁略伝』)、学校経営とともに『農業三事』の出版、『農業雑誌』の刊行など、わが国の農業界に大きな影響を与えたが、明治17年(1884)に学農社学校は廃された。
創設者津田仙は、青山学院の源流の一つとなった女子小学校や、普連土(ふれんど)女学校の創立(第7節第2項(2)368ページの「港区地域の女子諸学校」参照)にも、協力者としての役割を果たしている。明治初年に築地居留地にたてられた築地ホテルの理事として、外人の需要をみたすため、外国から種子をとり寄せて西洋野菜の栽培に当たった。明治6年オーストリアのウィーンに万国博覧会が開かれたとき、随員として派遣され、同市でオランダの園芸家ホーイブリンクについて、農業に関する学問と実地指導を受けている(都史紀要『東京の理科系大学』)。
学農社は、開業願(明治8年)・『朱引(しゅびき)内私学校明細簿』(明治10年)・『私立学校書類』(明治16年)によれば、初め麻布東町23番地に創設され、麻布本村町177番地、麻布本村町217番地と移転している。
私学開業願(明治八年七月提出)
一私学位置 東京府下第二大区十二小区麻布東町二十三番地
一校名 学農社
一教員履歴 東京府士族 津田 仙
明治八年 七月
三十七年九ヶ月
幼年ノ時旧佐倉藩小倉弥学ニ就テ漢学ヲ修メ其後二十歳ニ至リテ手塚律蔵ニ随テ蘭学ヲ学ビ又森山多吉郎ニ随テ英語学ヲ学ヒ旧幕府外国方相勤メ慶応二年米国江航シ明治三年東伏見宮英学修業中侍読相勤メ明治六年博覧会御用ニ付澳国江被遣彼地ニ於テホーイブリンク氏ニ従テ農業ヲ学フ
一学科 農学
一教則
稼穡(カショウ)学 耕圃学 牧畜学 植物学 動植性理学 地質学 化学 翻訳(ホンヤク)書 本邦農書 実験
余 科
スペルリングブック リードル 文法書 理学初歩 万国史 窮理学 経済学 算術
(校則以下略)
開申書(甲第五十号布達による 明治一六年)
第一 設置ノ目的
本校ハ専ラ泰西ノ農書ヲ教授シ以テ本邦ノ農業ヲ改進セシメンコトヲ主旨トス
第二 名称
本校ハ学農社学校ト称ス 位置麻布区麻布本村町二百十七番地ニ建設セリ
第三 学科課程及教科用書
本校ノ学科ヲ分テ二トス正則科変則科之レナリ正則科ハ専ラ英書ヲ講授シ変則科ハ諸書ヲ抜萃シテ筆記講授スルモノトス
(第四以後 略)
名称は学農社で届け、後、学農社学校と改めた。なお『農業雑誌』は明治9年に創刊し、農学校廃校ののちも続けられ大正時代にまで及んでいる。
■攻玉社(こうぎょくしゃ)
攻玉社は最初攻玉塾と称し、明治2年11月、近藤真琴が四谷鳥羽藩邸内に家塾を開いたのに始まる。慶応義塾が英学を主としたのに対して、英学・皇漢学のほか測量算術を教え、海軍軍人の中心となる人材を多く養成した。
明治7年の『文部省第二年報』には、攻玉社の生徒数351人で慶応義塾の526人についで多い。明治9年11月には女子科が開設されている(『攻玉社百年史』年表)。
明治6年の攻玉塾の開学願書は次のように記している。
私学開業願(第二・四条と塾則 略)
第一条 学校位置
東京府管下第二大区小三区芝新銭座第六番地持地
第三条 教員履歴
広島県貫属士族 従六位 近藤 真琴 壬申四十二歳
天保九年戊戌ヨリ安政二年乙卯マテ皇漢学小浜撲介エ従学嘉永二年己酉ヨリ同四年辛亥マテ漢学堀池柳外江従学同六年癸丑ヨリ安政四年丁巳マテ蘭学高松譲庵エ従学同年ヨリ文久三年癸亥マテ蘭学兵学大村兵部大輔江従学文久三年癸亥ヨリ算術ニ志ス同年癸亥後半年ニシテ幕府軍艦操練所翻訳方申付ケラル翌年測量算術教授方トナル慶応元年乙丑ヨリ英学ニ志ス慶応三年丁卯冬ヨリ明治元年戊辰二月マテ英国測量士官グラントエ従学其他算術測量ハ多ク原書ニ就テ相学英学又対訳辞書等ニヨリ相学候故是ト申ス教師姓名難書記幼年入学ヨリ凡ソ三十一年修業明治二年己巳十一月ヨリ開業同年十月海軍操練所出仕同三年庚午十月兵学大助教従七位四年三月兵学少教授正七位八月海軍少佐兼少教授十月海軍中佐兼兵学中教授十二月従六位五年七月免官御用滞在
(他教員 略)
第五条 学科 皇漢学 英学 測量算術
教則 八時ヨリ九時マテ 米国史 万国史 地理誌 文法書 英語綴
九時ヨリ十時マテ 垜(ダ)術 諸等 幾何学少年生
十時ヨリ十一時マテ 仏国史 十八史略 国史略甲 論語 国史略乙
十一時ヨリ十二時マテ 応用実算 代数学 分数
一時ヨリ二時マテ 加渡乗除 分数 雑問
二時ヨリ三時マテ 理学初歩 測量
三時ヨリ四時マテ 方程式 幾何
隔夜六時ヨリ七時マテ 微分 博物楷飜訳(ホンヤク) 同訓読
明治8年9月に、芝新銭座二番地借地に「航海術測量専門」の攻玉塾分校が設置された。明治13年1月に、分校位置、名称が次のように変更された。
分校位置替并改称上申
芝区新銭座町十一番地
私学校攻玉塾附属
同区同町四番地分校
航海術習練所
右者今般都合ニ寄リ同区神明町二十五番之内攻玉塾地続建家借請求塾分校商船黌(コウ)ト改称仕候此段御届申上候也
明治十三年第一月二十二日 右町 私学校主 近藤真琴代理
原 万造印
東京府知事 松田 道三殿
明治13年に「陸地測量」の科目が増加された。攻玉社の沿革は『明治十七年中十八年中教育沿革史編纂書類』に次のように記されている。
明治二年十月兵部省ノ召ニ応シテ出府シ海軍操練所出仕ヲ命セラルルニ及ヒテ旧門人来ル者アリ又新タニ教授ヲ請フ者アリ乃チ麹町ナル鳥羽藩邸ノ自宅ニ於テ公務ノ間ニ業ヲ授ク
十一月築地海軍操練所管内元一橋邸ニ於テ官宅ヲ賜フ兵部省特更ニ生徒ノ教援及寄宿ニ便ナルカ為メニ広キ所ヲ以テセラル是時ヨリ塾名ヲ攻玉塾ト称シ前ニ記シタル学科ヲ修メシム
明治四年三月芝新銭座町六番地(改正後十一番地)ナル慶応義塾ノ家作ヲ福沢諭告ヨリ譲ラレ四月十六日同地へ転ス
明治六年幼年学ヲ建ツ是レヨリ満十四歳以下ノ者ヲ幼年トシ規則学科等全ク其制ヲ中壮年ト異ニス
明治八年九月別に航海術測量習練所ヲ芝新銭座町二番地ニ設ケ移シ同十二年芝神明町二十五番地即チ本学ノ属地ニ移シ改メテ商船黌(コウ)ト称ス
商般黌ヲ本黌ノ傍ニ移スニ及ヒテ其旧地芝新銭座町二番地ヲ以テ陸地測量習練所トナシ…是ニ於テ攻玉塾本黌中壮年部・幼年部・商船黌、陸地測量習練所トナシ合セテ攻玉社ト称ス
明治20年9月、特別認可学校として次の願書を提出した。
当社学校普通学本科高等本科之義ハ専ラ中学ノ課程ヲ教授シ府県立中学校課程ト同等ノモノト存シ候ニ付文部省訓令第五号ニ依リ官立府県立学校同等ノ学校ト御認定相成度別冊相添此段奉願候也
そして設置の目的を「海軍諸学校、高等中学校、東京農林学校、東京商業学校ノ如キ官立ノ学校ニ入ラントスル者」や民間業務に就く者を養成するとして、予科、普通本科、高等本科と、数学専修科、量地科、土木科を設けた。日清戦争では38パーセント、日露戦争では20パーセントの海軍将校を出したと『新修港区史』は述べている。
関東大震災で目黒大崎の現在地に移転した。
関連資料:【文書】私立・諸学校 学農社