「学制」や「教育令」には、特に女子教育についての定めはなく、「学制」では女児小学が小学校に含まれており、「教育令」では小学校での共学を認めていたが、原則は「男女教場を同じくしない」ことで、小学校以外は、男女別がたてまえであった。当初、女子の就学率は低かったが、徐々に上昇し、小学校以降の中等程度の学校が求められたが、ほとんど私立学校に頼っていた。
『私学明細簿』によると、明治10年(1877)の旧朱引(しゅびき)内私立学校は、793校あったが、このうち女子のみの学校は、わずか14校にすぎない。
この私立学校の約半数は、小学校の課程で、ほとんど下等小学の男女共学であった。それにひきかえ、女学校、女塾、女校などの名を掲げた女子の14校は、皇漢学、英学、洋算、洋裁などを主とし、小学校卒業を入学資格とした高等の普通教育を授ける、教育内容の高い学校であった。この14校中4校が、港区地域、それも芝地域(第二大区)に存在していたのである。
明治4年、わが国最初の女子留学生が5人、開拓使からアメリカに派遣されてはいるが、東京府内の官立女学校は、明治4年設立の東京女学校(竹橋女学校として知られる)と、芝地区の「開拓使学校女学校」(第6節第2項(1)335ページ参照)の2校のみで、それも、開拓使女学校は明治9年に、東京女学校は明治10年に西南戦争のため廃校されている。
東京府における公立女学校は明治22年4月に開校した東京府高等女学校(後の府立第一高等女学校)が最初であり、港区地域にはまだなく、明治前期の中等程度の女学校は、すべて私立学校であった。