明治初期の4校

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 明治10年の『私学明細簿』により、明治初期の女子教育の一端を知ることができる。港区地域に設立されたうちの2校は開拓使と関係があり、もう1校は公立小学校の教師によって開かれていたのも、この地域の特色といえよう。
 
■水交女塾[注釈7]
 明治5年に、医師星野康斉によって第一大区九小区南佐柄木町に設立され、のちに第二大区二小区桜田本郷町11番地に移った。開学願には次のように記されている。
 
  第一大区九ノ小区南佐柄木町三番借店星野康斉奉申上候私女儀是迄英学修行為致置候ニ付今般女学私塾相設度候得共未浅学ニ依而本意ヲ不遂候折柄幸静岡県士族小林省三女ま佐事願済ニテ私方ニ寄留小女ト同志ニ付幼童ニ英学教導為致度何卒開塾御免許ニ相成候様奉懇願候(後略)
 
 教師は娘の星野輝(15歳)と、開拓使出仕小林省三の娘まさ(16歳)であり、英学の外に皇学・洋算を教えた。幼女英学塾が併置されていたが、のちに分離して芝増上寺山内に貞嫻女塾となった。水交女塾は明治30年に大久保に移り水交塾と改称している。
 
■知新塾[注釈8]
 開拓使女学校の教師であった條田雲鳳が、明治8年に第二大区四小区芝愛宕町3丁目に開いた。私学開業願は次のようである(都史紀要9『東京の女子教育』)。
 
  私学位置 東京府管下第二大区四小区芝愛宕町三丁目一番地借家知新塾
  教員履歴            東京府管下平民 條田 雲鳳
                 明治八年一月 六十一歳四ヶ月
  文政元年ヨリ東京中井嘉門ニ従ヒ同四年迄四年間筆道修行同文政二年ヨリ東京朝川哲ニ従学天保二年迄十三年間漢学修行明治五年七月開拓使女学校教官拝命同七年十月北海道札幌江転校之達旨有之ニ付辞職願之上私学開業
  学科  漢学皇漢筆道
   (教則・塾則 略)
 
 その後の詳細は不明である。
 
■河村女校[注釈9]
 明治9年2月に、青森県出身河村宗譫の娘河村重子(当時18歳5カ月)が、第二大区七小区芝森元町2丁目11番地に開設した。15歳以上の女子が入学し、昼間繁劇(はんげき)のものには夜間も開講した。
 学科は、皇学・語学(詞ノ同街・詞ノ玉緒)・習字・衣服縫裁があげられている。教師履歴はつぎのようになっている。
 
  文久二年壬戌二月ヨリ明治八年乙亥一月迄祖父河村吟松ニ従ヒ皇学語学習字トモ修業仕候
 
 麻布材木町に分校が設立されていたが、明治16年に廃された。また河村女校は、明治32年ごろまで開業していたようであった。
 
■恒徳女学校[注釈10]
 明治10年4月に、第二大区二小区芝田村町7番地金子茂平方に設立され、翌11年6月に閉学したが、明治17年2月に再び設置願が提出された。設立者は、教師である宮原金矢であり、公立小学桜川女学校の主宰者であった。
 
                愛知県士族確姉 宮原 金矢
                      二十五年九ヶ月
  父成太儀漢学私塾開業仕居候ニ付家学相承安政六年己未ヨリ明治八年乙亥マテ都合十七年間漢学従学仕明治五年辛未ヨリ同癸酉マテ都合三年間東京氷川社詞掌橋本彦八方江皇国学通学仕候明治六年五月五日第二中学区第一番公立小学鞆絵学校一等授業生拝命同七年十二月廿日準下等訓導ニ転シ同八年六月七日第二中学区第二番公立小学桜川女学校下等訓導拝命同十年一月三十日旧官被発翌二月一日更ニ四等準訓導拝命同年四月六日依願免職致候
 
 明治17年の再開業の設置願によると、場所は芝区南佐久間町1丁目3番地に移転している。教育の目的は「修身・和漢文・算術・習字」であり、入学の条件は漢文を粗通読しうる者か小学中等科卒業者(現在の小学校6年卒業相当者)であって、満14歳以上25歳以下の女子になっている。
 
関連資料:【文書】私立・諸学校 水交女塾
関連資料:【文書】私立・諸学校 知新塾
関連資料:【文書】私立・諸学校 河村女校
関連資料:【文書】私立・諸学校 河村女校分校
関連資料:【文書】私立・諸学校 恒徳女学校