現在まで継続された女学校

368 ~ 368 / 417ページ
 明治初期に設立され、現在まで長い歴史をもつ、私立の女学校が港区地域に多く存在している。東洋英和女子中・高等学校、頌栄(しょうえい)女子中・高等学校、普連土(ふれんど)女子中・高等学校がそれである。
 
■東洋英和女学校
 カナダメソジスト派の教育活動は、アメリカのメソジスト監督教会(前述東京英和学校の設立)よりおくれ、明治17年(1884)3月、麻布区鳥居坂に「東洋英和学校」を創立してから始められた。つづいて女子教育へも志向され、同年の9月に東洋英和女学校が設立された。
 
   私立学校設置願
  一 設置ノ目的 当校ハ彝倫道徳ヲ本トシ修身科ヲ始メ別表ニ列記セシ各学科及英文ノ教科ヲ教授シ優良ナル婦女ヲ養成スルヲ目的トス
  一 名   称 東洋英和女学校
  一 位   置 東京府下麻布区東鳥居坂町十四番地
  一 学科学期課程及教科用図書器械 (略)
  一 教授法ノ要旨
  明治一八年ノ改正規則デ、修身・読書・作文・習字・算術・地球・本邦歴史・図画・博物・物理・裁縫・唱歌・体操トナル
  (試業規則・時限・休業日・生徒心得・罰則・生徒定員・教員職務心得 略)
  一 入学生徒学力 小学中等科卒以上ノ学カアルモノハ入学セシム(小学初等科卒業ノモノハ予科へ小学中等科卒業ノモノハ本科へ入学セシム)
  一 入学生徒年齢 満十二年(十年)以上ノモノニ限ル
  一 教員々数 教員四人 内外国人二名本国人二名但シ婦人ヲ以テ教員トス
  一 学校長教員品行学力及履歴
  教頭
               東京築地明石町四番地居留
           英国人 マーサ・ジューリア・カートメル
                  明治十七年九月 三十八年
  教員・教員履歴・学校設置者履歴 経費収入支出(略)
  右之通設置仕候ニ付御認可被下度此段奉願候也
    東京府下麻布区東鳥居坂町十二番地 東洋英和学校会社長
    同府同区同町十四番地寄留   長野県士族 小林 光泰 印
  明治十七年九月廿三日
 
 カートメルは教頭として届け出てあるが、事実上の初代校長であり、生徒は洋服を着用し西洋婦人同様の扱いであったが、教育方針は日本固有の醇風(じゅんぷう)美俗を尊重していたという。
 
■頌栄女学校[注釈11]
 明治17年に頌栄小学校を設立した岡野清致は、翌18年1月に「英語学ヲ教授スルヲ以テ目的」とした頌栄英学校を芝区二本榎2丁目34番地に設け、同年9月英学校と同じ場所に頌栄女学校の設立が認可された。設立願には、次の目的が記載されている。
 
  修身和漢文習字算術地理本邦歴史博物物理化学図画裁縫女礼家政音楽体操英語等別表ノ如ク教授シ第一道徳ヲ本トシ優美ナル婦女ノ徳義ヲ涵養スルヲ目的トス
 
 外人教師は長老派の婦人宣教師であり、入学資格は小学中等科卒業以上の、年齢は満12歳以上の女子であった。
 興味ある事実は、開学願の修身の項で、「専ラ新旧両約聖書ニ基ヅキ且ツ和漢聖賢ノ格言ヲ引キ」とあった「新旧両約聖書ニ基ヅキ」に、付箋がつけられて下げ戻されたことである。当局はこの時期宗教教育を禁止する方針であったようである(都市紀要9『東京の女子教育』)。
 明治19年6月に芝白金猿町53番地に新築移転したが、当時の生徒12人と伝えてあり、明治21年ごろは40人程度であった。
 明治31年の『女学雑誌』(第460号)に、日本全国基督新教派女学校66校のうち、同校は日本基督教会派の学校に数えられているが、外国ミッションに属さない独立校13校の一つとして明記されている。
 
■普連土女学校[注釈12]
アメリカのソサイテイ・オブ・フレンドが、わが国にたてた唯一の教育施設で、「普連土」はフレンドをあてたものであるという。明治20年の設置願による設置の目的には、次のように聖書を教科目にかかげている。
 
  聖書英語数学和漢文裁縫習字等女子ノ普通科ヲ置キ他日家庭ノ教育ヲ為スヲ目的トス
 
 「麻布区本村町二百十七番地」に設立された普連土女学校は、慶応義塾出身の久野英吉が設立届出人であるが、前述の学農社を設立した津田仙の協力により、コサンド夫妻の経営・育英によってスタートした。
 明治20年より英語・西洋裁縫・水彩画を教えたガンドレーは、その生涯を普連土女学校の育英にささげ、青山外人墓地に葬られている。
 
■香蘭女学校[注釈13]
 明治20年12月に、麻布区麻布永坂町1番地に設けられたこの学校は、イギリス系監督教会の一つ福音伝播(でんぱ)会が、明治19年に聖ヒルダ伝導会を設立し、その一事業として始められたものである。その維持団体として、イギリス本国に聖ポール協会が作られ、婦人教師はみんなこの団体から派遣されている。
 
  彝倫(イリン)道徳ヲ本トシ英語学和漢学算術幾何代数等諸科及ヒ音楽裁縫礼儀毛糸細工等ヲ教授シ優等全備ノ貴女ヲ養成スルヲ以テ目的トス
 
と、設置目的を掲げているが彝倫(いりん)道徳の内容は示されていない。しかし生徒心得には、「日曜日午前八時ヨリ同十一時迄出席シテ道徳ノ講議ヲ聴聞スヘシ」という表現で、日曜礼拝に参加することを規定している。
 教員のソートンとヒックスは、「聖ヒルダ瑤光(ようこう)ホーム」という孤児収容施設を学校の近くに開き、その後長い間、社会事業にも尽くしていた。
 
■青山女学院
 メソジスト監督教会の婦人宣教師スクンメーカーは、最初の受洗者となった津田仙(学農社設立者)の協力によって、明治7年11月に麻布新堀町の一民家に「女子小学校」を開いた。
 その後、三田北寺町の聖祥寺に移り救世学校と改称した。英語の外に数学・地理・歴史・裁縫・体操に及び、後に日本人教師により国語・漢文も加えられた。明治9年に築地明石町に校舎を新築して海岸女学校と称した。
 明治21年9月に、青山南町7丁目の東京英和学校(前述の第1項(2)352ページ参照)の一部を借りて「東京英和女学校」が開校し、明治28年に前述の海岸女学校と統合して青山女学院が誕生した。
 『青山学院五十年史』によれば、青山女学院は青山学院に統合され女子部となるが、麻布新堀町の女子小学校開設の日を、青山学院の創立記念日にしている。
 
関連資料:【文書】私立・諸学校 東洋英和学校
関連資料:【文書】私立・諸学校 東洋英和学校 尋常中學科設置願
関連資料:【文書】私立・諸学校 頌栄女学校
関連資料:【学校教育関連施設】
関連資料:【文書】私立・諸学校 普連土女学校
関連資料:【文書】私立・諸学校 香蘭女学校
関連資料:【文書】私立・諸学校 東京英学校