明治維新を迎え、日本が近代化への道を歩み出すにあたって、なによりもまず必要であったことは、西欧の近代科学の所産である知識・技術等の文化の吸収であった。
明治5年(1872)の「学制」には、社会教育に関する規定はなかったが、学校以外の方法による一般の人々の知識の開明にも着目していた。それは、欧米の教育事情を視察した人々が、学校以外の教育施設やはたらきについて紹介していたからである。『理事功程』・『文部省雑誌』などの政府刊行物や、福澤諭吉の『西洋事情』などは、社会教育分野の理解を促していた。
また、明治10年代にあっては、自由民権運動も興り、思想啓蒙(けいもう)的な演説会や講習会が全国的によく開かれるようになった。しかし、このような知識の啓蒙を重点とした社会教育は、天皇を中心とした国家体制が強固になるにしたがい、さまざまな制約を受け、社会教育の主流とはなりえなかった。書籍館(図書館)・博物館の整備など実際の社会教育は進められていったが、明治44年「通俗教育調査委員会官制」ができ、大正10年(1921)、通俗教育が社会教育と改称され、社会教育の制度と概念が成立するまでは、社会教育とは呼ばれなかった。