国家体制の強化と通俗教育

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 今日の社会教育に相当するものは通俗教育だといわれるが、これが行政的に取り上げられたのは明治18年(1885)12月の文部省官制[注釈1]による通俗教育の規定が最初であり、このとき学務局第3課の所管事項に通俗教育が入っている。
 明治政府にとって欧米列強に肩を並べるだけの国力と国家体制をつくりあげるためには、明治維新後の社会不安をおさめ、天皇制を定着させ、近代的な産業文明をつくりあげることが急務であった。
 そのため、愛国精神を普及させることを意図して、明治2年、政府は神祇(じんぎ)省に教導取調局をおき、宣教師をおいている。さらに明治5年には教部省と改め、そのもとに教導職がおかれ、神官、僧侶、石門心学関係者、講談師、俳諧師などが任命されたという。行政面からの社会教育は、その出発からして、教化を重点的においた社会教育であったといえる。
 明治10年代から20年代にかけては、各地に教育会がつくられ、通俗教育談話会や通俗教育講談会の名称で、道徳問題を中心に教化活動がすすめられた。また、このような公的社会教育と呼応する形で、明治10年代以降、日本弘道会などの教化団体が出現し、のちの国民教化に大きな影響力をもつに至った。