寄席(よせ)へ行って世間の勉強をするということや、芝居の観賞、遊芸のけいこごとは、江戸時代から明治初期にかけて人々の生活を意義づけたり、価値観を形成する上で、大きな役割を果たしていた。社会教育を広くとらえれば、このような諸活動もその範ちゅうに入るのであり、人々の生活意識や価値観の形成に与える影響力の大きさを考えると、むしろ庶民にとっては社会教育の柱であったといえよう[注釈2]。
講談師が教導職に任じられたのは、大衆演芸の持つ教化力に着目してのことであろうが、寄席娯楽などは、そのような教化的利用を離れても伝統的な価値観の継承に役立つものを多く持っている。東京では寄席講談や義太夫が、明治20年代には最盛期を迎えていた。
また、東京の下町では、中流商家の子女にとって三味線・踊りなどを習うことはあたりまえのようになっていたし、男性についてみても、義太夫・小唄のひとつも唄えなくてはという気風が、中流の商家の人々に定着していた。人生の機微にふれ、日本人特有の感性を培ってきたこれらの伝統芸能は、流行に左右されながらも、連綿と今日まで受継がれ、文化的・教養的要素を持ち続けているのである。